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スペイン列車爆破テロはなぜ起こったか

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写真:テロで攻撃された列車のひとつ(GTRES)

アントニオ・ルイス・バルディビア
EL HUFFINGTON POST 2014/03/11

 10年前の3月11日、朝7時37分から41分の間に、マドリッドの通勤列車4台で10個の爆弾が爆発した。これほど強烈なテロは、スペインでは起こったことがなかった。死者191人、負傷者1800人以上を出したこの大虐殺を目の当たりにし、スペイン全体が言葉を失った。スペインの人々は、泣きながら思った。「なぜ?」

 この問いは、一見簡単なようであるが、その答えを出すために、山ほどの仮説が語られてきた。あれから10年後の現在、レイ・フアン・カルロス大学のフェルナンド・レイナレス政治学教授が、著書『やつらを殺せ!』の中で、その答えを出そうとしている。この作品には、起訴状や情報機関の報告書を集めたり、あの大虐殺の起源を探るために調査旅行をしたりした、何年にもわたる研究の成果が収められており、これまでこの事件について書かれた著作の中で、最も完全なものとなっている。

 テロリズム研究を専門とするレイナレス教授は、その著書の中で、重要な問いのいくつかに、次のような答えを出した。

スペインでのテロという考えは、どこで、どのように生まれたのか?

 レイナレス教授によると、マドリッドから6600キロメートル以上離れた巨大港湾都市カラチ(パキスタン)で、モロッコ人アメル・アジジが、スペイン列車爆破テロ(以下、11-M。スペイン語で3月11日を表す)を考え出した。その破壊的な計画をカラチで思いついたアジジという人物は、1990年前後にスペインにやってきた移民であった。マドリッドで、大麻を吸い、レゲエを聞きながら青春時代を送った後、急進化し、イスラム教の最も排他的で厳格な思想にのめり込んだ。

 アジジは、イラン経由でカラチに来ていたとき、スペインにおけるダティル作戦の知らせを受け、がくぜんとした。ダティル作戦は、1994年にアルカイダがスペインに作った細胞を解体させるために、バルタサル・ガルソン判事が立ち上げた作戦だった。2001年11月のこの作戦によって、スペインの細胞のメンバーの大部分が逮捕された。逮捕者の中には、リーダーのアブ・ダダもいた。

 スペインの軍や警察に捕まらなかったメンバーの一人が、スペイン国外のカラチにいたアジジだった。そこで、2001年の年末、アジジは、モロッコ出身のアブデラティフ・モウラフィク(2003年のモロッコにおけるテロの後に逮捕され、有罪となっている)という名のイスラム教徒と面会し、史上最悪の大規模テロでスペインの国民を苦しめる計画について話し合った。従って、スペインを攻撃することをアジジが最初に決意したのは、アブ・ダダの細胞の解体に対する復讐の願望によるものだと、レイナレス教授は主張している。

単なる復讐なのか?

 このアジジの願望を補って完全なものにし、11-Mの準備を前進させたのは、2002年2月、ジハード主義者の数グループがイスタンブール(トルコ)で開催した重要な会合だった。その会合では、聖戦のための行動は、武力紛争のある場所だけでなく、「不誠実な人々が主として」住んでいる国々においても行われることが決定された。

 会合には、後に11-Mのテロ・ネットワークに加わったモロッコ・イスラム戦闘集団(GICM)が参加しており、その時から、スペインが攻撃の中心に据えられた。イスタンブールの会合を受けて、マドリッドでは、ムスタファ・マイモウニ(アジジと同様、アブ・ダダのグループのメンバーで、まだ逮捕されていなかった)が、モウラフィクとアジジから、二カ所に細胞を作る命令を受けた。ひとつはモロッコのケニトラ、もうひとつはスペインだった。

11-Mのテロ・ネットワークは、どのような構成になっているか?

 11-M実行のための末端のネットワークを構成するジハード主義者たちは、三つのグループに分類することができる。アブ・ダダの細胞のメンバーでまだ逮捕されていない者たち、GICMが西ヨーロッパに持っていた組織(主にベルギーで活動し、イスタンブールの会合にも関係していた)、ジャマル・アーミダン通称エル・チノのグループ(宗教的に急進化した一般犯罪のグループ)である。

 また、この三つのグループに直接的には分類できないメンバーもいたが、彼らも11-Mの組織に組み込まれたと、レイナレス教授は指摘している。この三つのグループは、1年半の間に、徐々にひとつにまとまっていった。そのプロセスは、時期的には、2002年3月に始まり、2003年8月に終了したと思われる。

日付が物語るものは何か?

 それらの日付を考慮すると、11-Mのテロ・ネットワークが結成されたのは、アメリカ同時多発テロの6カ月後、アフガニスタン戦争とダティル作戦の開始から4カ月後であり、また、イラク戦争の1年以上前、2004年4月14日のスペイン総選挙の告示の20か月前であったと、レイナレス教授は指摘する。

アルカイダ中枢部が出した11-Mへのゴーサインとは?

 アジジの復讐の願望と、ジハード主義者の様々なグループをまとめる機会であるというイスタンブールの見解に、第三の要素が加わり、この残酷なテロ作戦が実現された。それは、アルカイダ中枢部のゴーサインだった。

 レイナレス教授の意見では、アルカイダのお墨付きは、2003年の半ばごろに出た。アルカイダの幹部たちが、アジジをアルカイダの重要なポストに就けることで、11-Mにゴーサインを出したのだ。アジジは、ほかでもない、アルカイダのハムザ・ラビア対外作戦司令官の補佐官に任命された。このことが、11-Mを前進させる第三の要因となった。

 アジジは、パキスタンから、モウラフィクを介して、当初から11-Mに関与していたマイモウニに命令を出していた。2003年、マイモウニがモロッコで逮捕されると、マドリッドでのマイモウニの役目は、ドリス・チェブリに引き継がれ、その後、セルハーン・ベン・アブデルマジッド通称エル・トゥネシートに引き継がれた。

11-Mのテロリストたちは、どのような人物か?

 11-Mには、多数のジハード主義者が関与していると考えられるが、確証があるのは25人であると、レイナレス教授は考えている。レイナレス教授の観察では、この25人は全員男性で、そのうちの80%が1970年から1979年の間に生まれており、スペイン人は一人もいなかった(モロッコ人21人、アルジェリア人2人、エジプト人とチュニジア人が各1人ずつ)。

 ほぼ全員が、マドリッドかその周辺の町に住んでいたことがあり、半数は合法移民、3分の1は前科があった。高等教育を受けた者も数人いたが、ほとんどは中学校にも通っていなかった。このことは、彼らが主として経済移民の一世であることを示している。

11-Mの後、テロリストたちはどうなったか?

 レイナレス教授がその著書に記したところによると、テロ行為により裁判を受け、何らかの有罪判決を受けたのは、15人(マドリッドで11人、モロッコのラバトで3人、ミラノで1人)だった。2004年4月3日、マドリッド州レガネス市のマンションで、7人が自殺した。残りの3人は逃走した。

アジジのその後は?

 11-Mを思いついたアジジは、1年後の2005年、米国の無人機の攻撃により、ラビアと共に殺害された。

11-Mを招いたのはイラク戦争か?

 レイナレス教授は、この点について、著書の中で明確に述べている。「スペインを攻撃するという当初の決意も、イスタンブールでの会合も、2003年3月以降に展開したイラク戦争と結びつけることはできない。日付そのものが、イラク戦争と11-Mの関連を否定している」

11-Mを招いたのは2004年の総選挙か?

 2004年の総選挙も、11-Mと結びつけることはできない。というのは、11-Mを実行する2004年3月11日という日付は、すでに2003年10月から決定していたし、総選挙の告示は2004年1月になってからのことだったからだ。

テロリスト、イラク戦争、2004年総選挙は、11-Mをどのように利用したか?

 11-Mとイラク戦争と総選挙は、大本では関連づけることはできない。しかし、2001年にアジジが考え出した大虐殺を正当化し、(その後の政治的結末から判断すると)アルカイダが11-Mを成功例として語り、売り出すために、テロリストたちは、イラク戦争を、幸運にも偶然発生した動機として利用したと、レイナレス教授は指摘している。

 また、スペインの社会自体も、11-Mによって分裂した。レイナレス教授によると、そうしたことは、国民の考え方が左派と右派に二極化する傾向があることと、国家というものについての考え方がまちまちであることに起因している。

 レイナレス教授の著書が出版されるまでは、あの悲惨なテロが、二人の残忍なテロリストによってカラチで考え出されたものだと知っていた者は、ごくわずかであった。マドリッドは、この火曜日、あの悲惨な大虐殺から10年を迎える。しかし、10年という年月も、あの日の出来事の痛みを癒やすことはできなかった。

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