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アステカ人とメシカ人は違う?

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写真:コアテペック (INAH)

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 ナワトル語の「アステカ」は、「アストランの人」を意味しています。つまり、アステカ人は、起源地アストランからやってきた人々です。

 アストランを去ったアステカ人は、長いあいだ放浪した後、トゥラ(イダルゴ州)に程近いコアテペック(ナワトル語で「ヘビの丘」の意味)に到着しました。アステカ人は、そこに都市を建設し、定住しました。

 長い年月が経過したあるとき、コアテペックでいさかいが起こりました。ウィツィロポチトリ神を信仰していたアステカ人は、コアテペックから去ることを望み、コヨルシャウキ神(ウィツィロポチトリの姉)を信仰していたアステカ人は、コアテペックに残ることを望んでいたためです。争いに勝利したのは、ウィツィロポチトリを信仰していた人々でした。

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写真:ウィツィロポチトリ (INAH)

 勝利したアステカ人は、南へと移動を開始しました。彼らがチャプルテペック(メキシコ市)に到着したとき、ウィツィロポチトリが4人のテオママ(神官)の夢に現れ、アステカ人に「メシカ」という名前を与えました。「メシ」はウィツィロポチトリの別名で、「メシカ」は「メシの子供」を意味しています。そこで、アステカ人は、メシカと名乗るようになりました。つまり、メシカ人とは、分裂してコアテペックを去ったアステカ人のことをさしています。

 その後、メシカ人は、アナウアク(ナワトル語で「水に近い場所」の意味)に到着しました。当時のアナウアクには、テスココ湖が広がっていました。メシカ人は、この湖の真ん中に都市を建設しました。その都市は、テノチティトラン(ナワトル語で「トゲのあるサボテンのある場所」の意味)、またはメヒコと呼ばれました。

 テノチティトランは、イタリアのヴェネツィアのように、水の上に建設された都市で、たくさんの水路が引かれていました。メシカ人の重要な交通手段は、カヌーでした。

 テノチティトランの祭祀センターであったテンプロ・マジョール(大神殿)には、ウィツィロポチトリに捧げられた神殿がありました。1978年、その神殿の基部から、バラバラになったコヨルシャウキの体を表す石彫(*)が発見されました。

* アステカ神話では、ウィツィロポチトリは、母であるコアトリクエを殺そうとしたコヨルシャウキの首と手足を切り落としたと言われています。

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