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メンドーサ中尉の罪

メンドーサ中尉は、かつて個人的な問題でもめたことのある上官から、銃撃された。一命は取り留めたが、執拗な攻撃は、それで終わりではなかった。現在は、不服従と襲撃で訴えられ、営倉にいる。しかし、実際には、この陰謀の本質は、別のところにある。以前、当紙において、メンドーサ中尉は、中部電力公社(LFC)解体時のカルデロン前大統領の作戦を実行したのは、連邦警察に変装した軍の兵士たちだったと告発したのだ。また、メンドーサ中尉と軍の同僚たちは、おびただしい数の人権侵害の原因である軍事裁判所の撤廃を、長期にわたり訴えてきた。詩人ハビエル・シシリアが率いる「正義と尊厳のある平和のための運動」にも参加している。

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写真:営倉 (Especial)

アルトゥーロ・ロドリゲス・ガルシア
Proceso 2013/11/08

 2012年9月19日の午後、マルコス・ヘラルド・メンドーサ・ペレス中尉は、ナウカルパン市のラス・アメリカス小学校へ、元妻との間の息子に会いに行った。そこで、息子やクラスメート、教師、父兄らの前で、銃撃された。

 メンドーサ中尉は、数か月前から、息子に会うことを妨害されているとぼやいていた。妨害していたのは、軍事裁判官のホセ・ラウル・セレドン・ラマス大佐で、メンドーサ中尉の元妻の内縁の夫である。軍の階級をその理由に持ち出されたため、メンドーサ中尉は従わなければならなかった。

 9月19日、大勢の父兄が迎えにきて混雑する午後2時半ごろ、メンドーサ中尉は小学校に到着し、セレドン大佐に出くわした。セレドン大佐は、狙いをしっかり定めないまま、少なくとも5回発砲した。そのうちの2発が、メンドーサ中尉に命中した。1発は左の脇腹、もう1発は背中だった。

 恐怖でパニックになる群集の中から、告発の声が上がった。「あのはげ頭だ!あいつだ!」と、セレドン大佐を指差して叫んだ。

 第1回目の証人尋問(証人は、ビビアン・プリエトとフアン・マヌエル・サンペリオだった。二人の車には銃弾の跡があった)によると、メンドーサ中尉は、セレドン大佐が発砲している間、慈悲を請い続けていた。傷を負ったメンドーサ中尉は、ウイサチャル総合運動場の壁際まで這っていったが、そこで、数人の兵士が、メンドーサ中尉をワゴン車に乗せ、陸軍病院に連れていった。弾丸は右の肺を貫通していた。

 セレドン大佐は、メンドーサ中尉の息子を連れて逃げ、6時間後、軍事裁判所に出頭した。そこで、セレドン大佐は、異なる説明をした。「頭突きで」攻撃されたため、「正当防衛」のために発砲した、と説明したのだ。その頃には、銃撃の場所には、すでに空の薬きょうさえ残っていなかった。その上、セレドン大佐は、メンドーサ中尉を不服従で訴えた。

 メンドーサ中尉は、陸軍病院に何週間も入院していた。

 退院の許可が出る直前、軍事司法警察の警察官が病院に押し入り、メンドーサ中尉を逮捕して、陸軍第1駐屯地の営倉に連行した。

 軍事裁判所は、銃器による傷を実際よりも軽く扱った。通常の裁判所は、セレドン大佐に対する殺人未遂の告訴を引き受けたがらなかった。セレドン大佐は自由の身で、マサトランの軍事裁判所で職務に就いている。一方、「頭突き」容疑で収監されたメンドーサ中尉は、「暴力行為による不服従で上官に傷を負わせた」として、起訴されている。

 事件が起こったとき、二人とも制服を着用していなかった。二人は同じ部署には所属しておらず、上官への服従が要求される直接的な上下関係にはなかった。二人は非番であり、軍事施設内ではなく、一般の市街地にいた。

 それにもかかわらず、軍事裁判所と憲法裁判所の裁判官は、通常の裁判所に訴訟を移すことを求めるメンドーサ中尉の訴えを拒絶した。メンドーサ中尉は、何年も前から、軍事裁判所を廃止するために積極的に活動してきた。なぜなら、軍事裁判は、人権侵害を助長する不正な手続きだからだ。

平和のための行進

 銃撃の1年前、メンドーサ中尉は、正義と尊厳のある平和のための運動(MPJD)に参加した。この運動を創設する中心となったのは、詩人のハビエル・シシリアと、フェリーペ・カルデロンの任期中に急増した暴力の被害者の遺族だった。

 この運動で、陸軍や海軍の何人もの将校たちが、憤慨し、軍事裁判所の不当な行為を告発した。軍事裁判所が、市民と軍人の人権を等しく侵害していると訴えた。

 メンドーサ中尉と現役の同僚たちは、MPJDのメンバーたちと共に行進し、メキシコ人権委員会と行政・司法・立法の各代表者に文書を送付し、公開討論会や下院の公聴会に参加した。軍事裁判所の改革を求めるためだった。

 例えば、2012年6月26日、MPJDはグアダルーぺ大聖堂へ巡礼した。大聖堂ではその日、サルティージョのラウル・ベラ・ロペス司教がミサを行った。巡礼したメンドーサ中尉と同僚たちは、軍による被害者の家族と腕を組んで、大聖堂へ入った。

 その頃には、メンドーサ中尉は、部隊の指揮官として、すでに当紙で証言していた。2009年10月19日、LFCの各施設を占拠するため、何千人もの兵士たちが、連邦警察の制服で変装したことを明かしたのだ。LFCはその日の深夜、カルデロンの政令によって解体された。

 メンドーサ中尉の証言は、2012年2月12日発行のプロセソ1841号で発表された。そのときのインタビューによると、メンドーサ中尉は、職務放棄の違反を犯したと見なされていた。なぜなら、メンドーサ中尉は、LFC監視作戦の是非を、様々な機会に問うてきたからだ。というのは、メンドーサ中尉によれば、その作戦で兵士たちは、LFCの従業員を入らせないようにすることと、軍人の身分を隠しておくことを命令されており、まるで獣のように暴力的にふるまったのだ。

 「実際、LFCの従業員たちは、そこへ行って横断幕を掲げようとしていただけだ。たとえ武器を携帯していなくても、われわれは軍の兵士だ。軍の兵士にそのような命令を出さなければならないほどの暴力行為も攻撃も、私はまったく見なかった。LFCの従業員たちは、言うなれば、要求するべきことを要求していたのだ。われわれを攻撃することは決してなかった」と、メンドーサ中尉はインタビューで答えた。

 また、メンドーサ中尉は、セレドン大佐との最初のいさかいについても語った。2010年5月、メンドーサ中尉は、息子に会うためにグアナフアト州イラプアトの兵営に行ったとき、入り口で、軍事警察に拘束された。メンドーサ中尉は、それはセレドン大佐の命令だったと語った。セレドン大佐は、もしまた子供に会いに来ようとしたら、不服従で訴えると脅した。どっちみち、メンドーサ中尉は訴えられた。

 「私はセレドン大佐に、権利の侵害だと言った。というのは、いずれにしても、それは家族の問題だったし、私には、息子に会いに行って、一緒に過ごす権利があったからだ。しかし、軍隊の内部とはこのようなものだ。家族の権利まで上官が決めるのだ」と、メンドーサ中尉はインタビューで語った。

 事件やその証言とは別に、メンドーサ中尉を含め、MPJDに参加していた陸軍と海軍の兵士たちには、一連の要求事項があった。裁判中の兵士の差し止められた給料の使途を明らかにすること、民間人が死亡または攻撃されたことによる告訴の場合は、指揮系統を調査すること、軍事裁判所の廃止、(選挙裁判所のような)民間人の裁判官による特別裁判所の設置である。

権利は救済されず

 陸軍病院での回復期間が終わると、メンドーサ中尉は収監された。刑事訴訟2012年第462号が開始され、2012年11月26日、第1軍管区の軍事第1法廷は、メンドーサ中尉を公判に付すことを決定した。この決定は、2013年4月8日、軍事最高裁判所によって承認された。

 メンドーサ中尉のセレドン大佐に対する「殺人未遂」の告訴は、メキシコ州検察庁によって握りつぶされた。セレドン大佐は、単なる職権乱用で軍事裁判所に告発されただけで、拘束されることはなかった。つまり、発砲は無視されたのである。

 刑事訴訟権利救済第1法廷の権利救済訴訟2013年463号IX-Bの訴訟記録によると、メンドーサ中尉は、容疑を否認している。

 セレドン大佐は、メンドーサ中尉が息子に会うために、セレドン大佐の家に行くことを禁じた。そのため、メンドーサ中尉は、授業が終わる時間に、息子に会いに学校に行くようになった。しかし、権利救済訴訟で提出された事件の経緯の記述によると、メンドーサ中尉が息子に会うことを妨げるような、正式な命令が出されたことはなかった。そのことは、元妻であるマリベル・バスケス・ベレス大尉の証言によっても裏付けられている。

 権利救済訴訟において、メンドーサ中尉は、事件があった日、中尉自身もセレドン大佐も非番であったことや、すべては軍の施設外で起こったことを明らかにした。また、たとえセレドン大佐の階級の方が上であっても、互いにかかわりのない部署に配属されており、メンドーサ中尉はセレドン大佐の指揮下になかったため、不服従ということはあり得ないと主張した。

 メンドーサ中尉が特に強く主張したことは、セレドン大佐が、市街地において銃器を使用したことだ。軍の職務中でもなく、なんらかの作戦に参加していたわけでもなく、本人によれば正当防衛のために、5発以上発砲したのだ。

 民間人の証人たちは、攻撃したのはセレドン大佐だと証言した。メンドーサ中尉は、セレドン大佐を、殺人未遂で連邦検察庁第2事務局に告訴したが、いまだに訴訟は行われていない。

 権利救済訴訟において、メンドーサ中尉は、この事件は通常の裁判所で扱われるべきだと主張した。軍人が職務外で殺人を犯した場合は、通常の裁判所の管轄となることが明記された、軍事裁判所法判例集第38巻の1933年の判例313404を論拠とした。ここ数年の11の判例も論拠として加え、通常の裁判所における審理を要求した。

 一方、セレドン大佐は矛盾した供述をした。例えば、第1回目の供述では、向こうから攻撃されたため、防衛するために武器を取り出し発砲したと供述した。発砲したが不発だったため、引き金を引き続け、負傷したメンドーサ中尉を見て、はじめて、内縁の妻の子供の父親だと気付いた、と主張していた。

 2回目の供述では、メンドーサ中尉がやってくるのを見たと供述した。メンドーサ中尉がセレドン大佐を攻撃しようと近づいてきたため、防衛するために発砲せざるを得なかったと主張したのだ。

 しかし、証人たちは、最初に攻撃したのはセレドン大佐だったと証言した。ある者はセレドン大佐が頭突きをしたと言い、他の者は両者が平手打ちで打ち合っていたと言った。その後セレドン大佐が武器を取り出し、発砲したと証言した。

 軍事裁判所とその裁判官は、9月19日のその事件で、不服従の違反があったと考えた。というのは、職務中であれ非番であれ、二人とも軍人であり、メンドーサ中尉はセレドン大佐の階級を知っていたにもかかわらず、「頭突きで」けがを負わせたからだ。

 権利救済訴訟の間、メンドーサ中尉が負わせたという傷は、何も見られなかったが、それでも、軍事裁判所は、暴力行為による不服従で上官にけがをさせたという訴えを受け入れた。

 メンドーサ中尉は、軍事裁判所が憲法14条と16条、およびメキシコが署名した国際協定の規定に違反していることを、論拠を提示して証明しようとしたが、権利救済は拒絶された。その結果、メンドーサ中尉はセレドン大佐の階級を知っていたという理由で、公判に付されることが確定した。

あとは刑務所あるのみ

 メンドーサ中尉は、ロヘリオ・ロドリゲス・コレア将軍による裁判を受けることになった。ロドリゲス将軍は、セレドン大佐の友人だと、メンドーサ中尉は言った。

 ロドリゲス将軍は、すでに2011年に、別の容疑でメンドーサ中尉の裁判を担当したことがあった。内容は軍紀違反で、セレドン大佐が告訴したものだった。そのとき初めて、セレドン大佐は、メンドーサ中尉が息子に会うことに反対した。また、セレドン大佐は当時、軍事第6法廷の裁判官であったが、2011年のメンドーサ中尉に対する裁判は、そこで扱われていた。この2011年の告訴の審理が、今回の訴訟2012年第462号と併せて行われることになった。軍事第6法廷には、セレドン大佐が裁判官だったときに裁判官事務官だった人物が、現在も働いている。

 ロドリゲス将軍は、カルデロン政権の間、軍における人権の擁護に従事したとされる高官の一人で、論議を呼んだ様々な裁判に関わってきた。例えば、2006年7月に、コアウイラ州カスターニョで14人の女性を暴行した兵士たちに対する裁判がある。その(あまりにも軽い)判決は、人権擁護の活動家たちから批判された。

 メンドーサ中尉が起こした権利救済訴訟は、刑事訴訟権利救済第1法廷が担当した。この法廷のサンドラ・レティシア・ロブレド・マガーニャ裁判官も、その判決によって、頻繁に論争に巻き込まれる人物である。

 ロブレド裁判官が権利救済の保護を与えた事例には、次のようなものがある。今年7月、麻薬マフィアのミゲル・アンヘル・トレビーニョ・モラレス、通称Z-40。2008年、メキシコ貿易銀行に対する4000万ドル以上の詐欺で訴えられていた繊維産業労働者のリーダー、フェルミン・ララ・ヒメネス。2006年、送還の命令の出ていたグアテマラの元大統領アルフォンソ・ポルティージョ。2005年、ゴルフォ・カルテルのトップだったオシエル・カルデナス・ギジェン。

 しかし、ロブレド裁判官は、メンドーサ中尉には権利救済の保護を与えなかった。メンドーサ中尉の弁護士は、次の2点を指摘している。一つは、ロブレド裁判官が、公判を5回延期したことだ。それによって、セレドン大佐の職権乱用の件が、軍事裁判所で解決されるまでの時間を稼いだのだ。もう一つは、最高裁判所が出した見解を無視したことだ。最高裁は、2012年9月4日、軍人が犯した職務外の犯罪は、通常の裁判所で裁かれるという見解を発表していたのだ。

 それでも、軍事裁判所とロブレド裁判官は、「この事件は個人的な問題に端を発していたかもしれないが、メンドーサ中尉は軍紀を乱し、損害を与えた。これは、軍事裁判所で裁かれるべき犯罪であり、メンドーサ中尉は引き続き拘束されるべきである」という、それぞれの見解を表明した。

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