- フィデルとの新たな2時間
ホーム > ラテンアメリカ > フィデルとの新たな2時間
写真:イグナシオ・ラモネとフィデルカストロ。2013年12月13日、ハバナでの対話(撮影:アレックス・カストロ)
イグナシオ・ラモネ
La Jornada 2014/01/01 (Le Monde Diplomatique No.219 2014/01)
穏やかな春のような日だった。キューバの素晴らしい12月に特有の、あのまばゆい日光と澄み切った空気があふれていた。近くの海の香りが届き、緑色のヤシの葉がささやかなそよ風に揺れる音が聞こえていた。私は、今ハバナにたくさんあるあの「民営レストラン」の一軒で、女性の友人と昼食をとっていた。突然電話が鳴った。私の連絡係だった。「君が会いたがっていた人が、30分後に君を待っている。急げ。」 すべてをそのままにして、友人に別れを告げ、指定された場所へと向かった。そこでは、普通の車が私を待っていて、運転手は、直ちにハバナの西部に進路をとった。
私は、その4日前に、キューバに到着していた。グアダラハラ・ブック・フェア(メキシコ)からやって来ていた。グアダラハラでは、私の新刊を紹介した。ボリーバル革命の指導者との会話を収録した「ウーゴ・チャベス わが半生記(1)」である。ハバナでは、毎年この時期恒例の新ラテンアメリカ映画祭が、盛大に開催されていた。そして、イバン・ジロウ委員長は、この映画祭の創設者のアルフレド・ゲバラに栄誉をささげる式典に、親切にも私を招待してくれた。アルフレド・ゲバラは、真の創造の天才で、キューバ映画の最大の推進者であったが、2013年4月に逝去した。
私は、ハバナに到着したらいつもそうするように、フィデルがどうしているか、すでに尋ねていた。そして、何人もの共通の友人を通じて、よろしくと伝えてもらっていた。1年以上、フィデルに会っていなかった。最後に会ったのは、2012年2月10日、ハバナのブック・フェアの一環として行われた「平和と環境保護のために」という大規模な会合においてだった。その会合で、フィデルは、40人の知識人たちと会話したのだ(2)。
その会合では、多種多様なテーマが取り上げられた。初めに取り上げられたのは、「メディアの力とマインド・コントロール」で、このテーマについて、開会の演説のような形で、私が話をした。私の発表の後、フィデルが述べた適切な意見を、忘れることはない。「問題は、大手メディアが流すうそにあるのではない。それは、われわれが阻止できることではない。今日、われわれが考えるべきことは、われわれが、どのように真実を伝え、広めるかということだ」
9時間続いた会合の間、フィデルは、選り抜きの聴衆に感銘を与えた。当時85歳にして、その精神の鋭敏さと知的好奇心が、まったく衰えていないことを示した。意見を交換し、問題を提起し、計画を立て、新しいことや変革、将来についての自らの考えを表現した。相変わらず、世界で起こっている変化に敏感だった。
あれから19カ月後の今、フィデルはどれくらい変わっているだろうか? フィデルの自宅へ向かう車の中で、そう考えていた。フィデルはここ数週間、公の場にあまり姿を見せていなかったし、今年は、その前の数年と比較すると、分析や考察を少ししか発表していなかった(3)。
到着した。フィデルは、いつもにこやかな妻のダリア・ソト・デル・バジェと共に、自宅の応接間の入り口で待っていた。応接間は広々として明るく、日の当たる庭に面していた。私は、感慨無量でフィデルを抱擁した。フィデルはとても元気そうだった。例のごとく瞳は輝き、その射るようなまなざしが、私の心中を探っていた。フィデルは会話を始めたくて、すでに待ちきれないようだった。まるで、「フィデルとの100時間(4)」のもとになった、10年前の私たちの長い会話の続きをするかのようだった。
まだ座ってもいないうちに、フィデルは、フランスの経済の状況とフランス政府の姿勢について、山ほど質問を始めた。私たちは、2時間半の間、あらゆることについて少しずつ、あるテーマから別のテーマへと転々としながら、旧友のように話をした。明らかに、仕事の対談ではなく、友達同士の会話の場だった。会話の間、私は録音をしなかったし、何のメモも取らなかった(5)。従って、この記事は、フィデルの現在の意見をいくつか発表するということ以外には、ただ、非常に多くの人々の好奇心に応えることのみを意図している。というのは、多くの人々が、「フィデル・カストロは元気なのか?」ということについて、善意からにしても悪意からにしても、思いめぐらしているからである。
すでに述べたように、フィデルは素晴らしく元気だった。私は、他界してすでに1週間以上がたつネルソン・マンデラについて、フィデルがまだ何も書いていない理由を尋ねた。フィデルはこう言った。「今、それについて書いているところで、記事の下書きがもうすぐ終わるところだ(6)。マンデラは、人間の尊厳と自由のシンボルだった。彼のことはよく知っている。際立って優れた人間性と、素晴らしいものの見方をする高尚さを備えた男だった。以前はアパルトヘイトを擁護していた人々が、今ではマンデラの崇拝者をもって任じている様子を見るのは、おもしろいことだ。なんという厚かましさ! そこで疑問がわく。もしマンデラには友達しかいなかったのなら、一体だれが、彼を投獄したのか? いかにしてあれほど長い年月、憎むべき犯罪であるアパルトヘイトが継続し得たのか? しかし、マンデラは、誰が真の友達かを知っていた。刑務所を出たとき、最初にしたことのひとつが、われわれに会いに来ることだった。まだ南アフリカの大統領になってさえいないときのことだ! というのは、マンデラは、キューバ軍の功績なしには、アパルトヘイト体制は崩壊していなかっただろうということ、また、マンデラ自身、刑務所の中で死ぬことになっていただろうということを、知っていたのだ。キューバ軍は、クイト・クアナバレの戦い(1988年)で、人種差別主義的な南アフリカ軍の精鋭たちをてこずらせ、それが、ナミビア独立の助けとなった。しかもそれは、南アフリカがいくつも核爆弾を保有していて、それらを使う準備ができていた時期だったのだ!」
それから、私たちは、共通の友達であるウーゴ・チャベスについて話した。フィデルはまだ、ひどい喪失感に苦しんでいるようだった。涙を浮かべんばかりにして、チャベスのことを思い出した。フィデルは、私の著書「ウーゴ・チャベス わが半生記」を、「2日間で」読んだと言った。そして、「君は、今度は続編を書かなければいけない。みんな続きを読みたがっている。それが君のウーゴに対する務めだ。」と言い足した。そのとき、ダリアが口を挟み、今日(12月13日)は、まったく奇妙なめぐりあわせで、フィデルとウーゴの最初の出会いから19年目にあたると指摘した。しばしの沈黙があった。まるでその沈黙が、突然その場に、何とも言えない厳粛さを添えたかのようだった。
フィデルは、心の中で思いを巡らしながら、1994年12月13日のチャベスとのあの最初の出会いを語り始めた。「ボリーバルについて講演してもらうために、エウセビオ・レアルがチャベスを招待したことを知ったのは、まったくの偶然だった。彼に会ってみたかった。飛行機の下まで、彼を出迎えに行った。そのことは、チャベス自身も含めて、たくさんの人を驚かせた。しかし、私は、チャベスに会ってみたくてたまらなかった。私たちは一晩、会話をして過ごした。」 そこで私は、「チャベスが私に語ったところでは、会話をしていたというよりはむしろ、あなたがチャベスを試験していたと感じていたそうですが」と、フィデルに言った。フィデルは笑い出した。「確かにそうだ! チャベスのすべてが知りたかったのだ。そして彼は、その教養、洞察力、政治的な巧みさ、ボリーバル的展望、心遣い、機知で、私を感動させた。彼にはすべてが備わっていた! 私は、ラテンアメリカの歴史における最も優れた指導者たちに並ぶ器を持った、偉大な人物を前にしていることに気が付いた。彼の死は、アメリカ大陸にとっては悲劇であり、私個人にとっては、あまりにも大きな不幸だ。最良の友を失ったのだから」
「あなたはその会話の中で、チャベスが実際にそうなったように、後になるであろうと、つまり、ボリーバル革命の指導者になるだろうと、予測しましたか?」 「チャベスは不利な状況から出発した。軍人で、社会民主主義の大統領に対して、クーデターを起こしていた。その大統領は、実際には、急進的な新自由主義の推進者だった。政治権力の中に、政策に干渉する軍高官が多数存在してきたラテンアメリカの状況の中では、左派の多くの人々が、チャベスに不信感を抱いていた。それは当たり前のことだ。私は、19年前の今日、チャベスと話をしたとき、チャベスが、ラテンアメリカの左派軍人の偉大なる伝統の中の一人となろうとしていることを、すぐに理解した。その伝統は、ラサロ・カルデナス(1895-1970年)から始まった。カルデナスは、メキシコの将軍・大統領で、大規模な農地改革を実施したり、1938年には石油を国有化したりしたのだ」
そこでフィデルは、ラテンアメリカにおける「左派軍人」についての広範な理論を展開した。そして、ペルーのフアン・ベラスコ・アルバラード将軍によって作られたひな型の研究が、チャベスにとって重要であったことを強調した。「チャベスは、1974年にベラスコと知り合った。まだ士官候補生だったころ、ペルーに行ったのだ。私もその数年前、1971年の12月に、人民連合とサルバドール・アジェンデのチリを訪問した帰りに、ベラスコに会った。ベラスコは、重要な諸改革を行ったが、間違いも犯した。チャベスはベラスコの誤りを分析し、それを回避するすべを知っていた」
数あるチャベスの長所の中でも、フィデルはあることを特に強調した。「チャベスは、若い世代の指導者たちを、ひとつにまとめあげるすべを知っていた。彼らは、チャベスの側で、しっかりとした政治的教育を受けることができた。そのことは、チャベスの死後、ボリーバル革命を継続するために、最も基本的なことであることが、明らかになった。特に、ニコラス・マドゥーロがいる。彼は、その堅固さと明晰さによって、12月8日の大統領選挙で、見事に勝利することができた。マドゥーロの指導者としての地位を確かなものにし、革命のプロセスに安定性を与える、重要な勝利だった。しかし、マドゥーロの周りには、ほかにも非常に有能な人材がいる。エリアス・ハウア、ディオスダード・カベージョ、ラファエル・ラミレス、ホルヘ・ロドリゲスなどだ。彼らはみな、しばしば非常に若い頃から、チャベスによって教育されてきた」
そのとき、フィデルの息子のアレックス・カストロが、会話に加わった。アレックスは写真家で、非常に優れた写真集をいくつか出している(7)。「思い出に」写真を何枚か撮りはじめ、その後、控えめに立ち去った。
私たちは、イランと、その核問題が11月24日、ジュネーブで暫定合意に達したことについても、話題にした。フィデルは、この話題について非常によく知っており、詳細に理論を展開した後、次のように結論づけた。「イランには、民生用原子力エネルギーを保有する権利がある。」 そして続けて、フィデルは、核の拡散や、過剰な数の核爆弾の存在によって、世界が核の脅威にさらされていることついて警告した。そして、いくつもの国が、それらの核爆弾を保有しており、「われわれの地球を何度も破壊する力を持っている」と警告した。
フィデルは、ずっと以前から、気候変動について心配している。そして、世界の様々な地域において、石炭の採掘が再び盛んになっていることが、気候変動に及ぼす危険について、話題にした。石炭の採掘は、温室効果ガスの排出という点において、有害な結果をもたらすものである。フィデルは、「毎日、炭鉱事故で約100人が亡くなっている。19世紀よりも、多数の死亡者が出ているのだ」と指摘した。
フィデルは、以前から、農学や植物学の問題に関心を持ち続けている。種がいっぱいに入った小瓶をいくつか私に見せて、こう言った。「クワの種だ。クワは、とても気前の良い木で、無数の利益を引き出すことができるし、クワの葉は、カイコの餌になる。もうすぐ、クワを専門とする教授が、それについて話をしにやって来る」
「あなたは、勉強をやめることはないようですね」と、私は言った。フィデルはこう答えた。「政治指導者というものは、現役の間は時間がない。一冊の本さえ読むことができない。悲劇だよ。しかし今、私はすでに現役の政治家ではないが、やはり時間がないことがわかった。なぜなら、ある問題に関心を持つことで、それに関連する別のテーマにも関心を持つようになるからだ。すると、読むべきものや関連のあることが積み重なっていき、やがて、たくさんある知りたいことのうち、もう少しだけ知るのにも、時間が足りないということに気付くのだ」
2時間半は、飛ぶように過ぎた。そろそろ夕刻であったが、ハバナでは夕闇は訪れていなかった。フィデルには、まだほかに面会の予定があった。私は、親しみを込めて、フィデルとダリアに別れを告げた。フィデルが、知識に対するそのすばらしい熱意を、以前と同様に持ち続けていることを確認して、とりわけうれしく思った。
注釈
1. Ignacio Ramonet, Hugo Chavez. Mi primera vida, Debate, Barcelona, 2013
2. Nueve horas de dialogo con el lider de la Revolucion, Es el Fidel de siempre Rosa Miriam Elizalde, Arleen Rodriguez Derivet (Cubadebate 2012/02/11)
3. Fidel Castro, Las verdades objetivas y los suenos, Cubadebate, La Habana, 2013/08/14
4. Fidel Castro. Biografia a dos voces, Debate, Barcelona, 2006
5. この記事内でのフィデルの言葉の引用は、すべて記憶を頼りにして書いたため、フィデルの言葉そのままではない。筆者の記憶をもとに、後に再現したものである。どの引用も、フィデル・カストロの言葉通りと見なすことはできない。
6. Fidel Castro, Mandela ha muerto Por que ocultar la verdad sobre el Apartheid, Cubadebate, 2013/12/18
7. Fidel, fotografias, Ediciones Bolona, La Habana, 2012