e-MEXICO

ホーム > ラテンアメリカ > 「チェ・ゲバラの死の真相を語るときがきた」

「チェ・ゲバラの死の真相を語るときがきた」

アブラアム医師は、歴史的大事件に偶然巻き込まれた。彼は、ボリビアのバジェグランデにあるセニョール・デ・マルタ病院の院長だった。1967年の10月9日、その病院に、エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナの遺体が運ばれた。アブラアム医師はゲバラの遺体を検死したが、検死報告書の内容を書きかえるよう、軍の将校から命じられた。アブラアム医師は、チェ・ゲバラが着ていた血に染まったシャツを現在まで保管しており、そのシャツでDNA鑑定を行い、サンタ・クララ霊廟のチェの遺骨が本物であるか確かめるよう、キューバ政府に求めている。なぜなら、チェ・ゲバラの死後50年の今、「チェの死の真相を語るときがきた」と考えているからだ。彼の証言は、現在発売中のProceso特別号No.55”El hombre, el mito”に掲載されている。

foto
写真:チェの遺体が置かれたボリビア、バジェグランデの洗濯小屋。バジェグランデに滞在していたスペイン人宣教師の甥イマノル・アルテアガさんが撮影した。 (Especial)

レティシア・モンタグネル・ガルシア、ラウル・トレス・サルメロン
Proceso 2017/10/09

 チェ・ゲバラを殺したのは、下から上へ心臓を貫いた一発の銃弾だった。しかし、伝説のゲリラ兵チェ・ゲバラの遺体を検死した公式の検死報告書には、その事実は書かれていない。なぜなら、その報告書は、「私が書いた、虚偽の報告書だからだ」

 モイセス・アブラアム・バプティスタ医師は、記憶を詳細に思い出し、1967年10月9日と10日に起こったことを語った。そのころ、ボリビアのバジェグランデにあるセニョール・デ・マルタ病院の院長をしていたアブラアム医師は、チェの遺体の検死を行い、デスマスクをとり、両手首を切断する作業を「指導」しなければならなかった。また、軍上層部からの命令で、検死報告書を虚偽の内容に書きかえた。

 「書きかえるように命じたのは、フアン・ホセ・トーレス将軍でした。」 フアン・ホセ・トーレスは、1967年当時はボリビア軍の参謀総長で、1970年にボリビアの大統領になった。

 アブラアム医師は、チェが着ていた、血に染まったカーキ色のシャツを、今でも手元に保管している。50年前から保管しているそのシャツは、チェがどのように殺されたかを示すものだ。

 「チェの死について、バジェグランデの軍当局は、チェは捕虜になっていたと発表し、ラ・パスの国防省は、チェは戦闘で死亡したと発表しました。情報が食い違っていたため、軍当局は、捕虜になっていたという最初の発表を取り消し、新たな内容の発表を行うように、私に命じました。当時、軍での私の階級は准尉でした。命令には従わなければなりませんでした」

 アブラアム医師は、メキシコのプエブラ市にある自宅でインタビューに応じた。メキシコにやってきたのは1969年、メキシコ市の医療センターで腫瘍学を研究するためだった。その後、プエブラ出身の女性と結婚し、プエブラ市に引っ越し、48年が過ぎた。ボリビアには戻らなかった。

 伝説的なゲリラ、チェ・ゲバラの殺害とその状況についてのアブラアム医師の証言は、近日発売予定の”Yo hice la autopsia del Che Guevara”(*1)の中で大きく取り扱われており、当記事は、その内容に基づいて書かれた。

タニア

 アブラアム医師がゲリラ部隊と初めて遭遇したのは、1967年8月31日のことだった。その日、ボリビア軍は待ち伏せ作戦を実施し、チェの第2部隊がバド・デル・ジェソ付近でグランデ川を渡ろうとしていたところを攻撃した。第2部隊を率いていたのは、フアン・ビタリオ・アクーニャ「ホアキン」だった。この待ち伏せ作戦で、タマラ・ブンケ「タニア」が死亡した。彼女の遺体は川の水に押し流され、一週間後、岩にはまり込んでいるところを発見された。

 アブラアム医師は、ゲリラ掃討作戦を指揮していたバルガス・サリーナス大尉の命令を受け、タニアの遺体を引きあげた。タニアの遺体は魚に食われ、腐敗も始まっていた。タニアのリュックには、手紙、自作の詩、ドル紙幣、ノート、パスポートが入っていた。アブラアム医師は、はがれそうになっていたパスポートの写真をはがした。「美しく魅力的な女性だった」

 アブラアム医師は、バジェグランデの病院で、タニアの遺体を簡単に検死した。「チェの伝記を書いたホルヘ・カスタニェーダは、タニアが妊娠していた可能性を示唆したが、実際は妊娠していなかった」

 10月9日、アブラアム医師は、バジェグランデの空港でチェの遺体を受け取り、セニョール・デ・マルタ病院まで、白いシボレーのワゴン車に乗せて移送した。CIAのフェリックス・ロドリゲス捜査官が同行した。もう一人のCIA捜査官グスタボ・ビジョルドは、すでに病院で待機していた。数人の兵士が、病院の中心となる建物から150メートル離れたところにある洗濯小屋の流し台の上に、チェの遺体を置いた。

 アブラアム医師はすぐに検死を行い、遺体を保存するためにホルマリンを注射したが、後にチェの遺体を見るためにやってきた人々は、ハンカチで鼻を覆っていた。

 チェの遺体は出血が多く、特に背中から多量に出血していた。背中には、銃の銃床、あるいはマチェテか銃剣による20センチ角の傷があった。チェは多数の傷を負っていたが、その中に、心臓を下部から上部へと貫く銃創があり、これがチェの命を奪った。チェは、イゲラ村(チェが殺された場所)に近いバド・デル・ジェソにおける戦闘で傷を負っていたが、それは、肘と脛の貫通銃創であり、致命傷ではなかった。

口論

 チェの遺体が到着する数時間前に、二人のゲリラ兵の遺体が、軍の兵士たちによって洗濯小屋に運び込まれていた。遺体は、ペルー人のフアン・パブロ・チャン・ナバーロ「チノ」と、ボリビア人のシモン・クーバ「ウィリー」のものだったが、それらの遺体に注意を払うものはいなかった。

 兵士たちは、空港から大勢の人々が来るのを阻止しようとしたが、阻止できなかった。

 洗濯小屋には、軍の高級将校たちがいた。パンド県工兵連隊長アンドレス・セリチ中佐、第8師団所属でチェの第2部隊を全滅させたマリオ・バルガス・サリーナス大尉、第8師団長ホアキン・センテーノ・アナヤ大佐、内務省の諜報機関長官ロベルト・トト・キンタニージャ大佐などであった。そのほかにも、CIAの捜査官が数名いたほか、ボリビアのレネ・バリエントス大統領まで、短時間、内密でやってきた。

 混乱が少しおさまると、アブラアム医師は、看護婦と共にチェの遺体を洗い、髪を短く切り、ズボンをはかせた。上半身は裸のままだった。

 10月10日の夜、軍の将校たちの間で、激しい口論があった。遺体がチェのものであることを示す決定的な証拠として、首を切り落とすことを軍上層部が命じたためだった。トト・キンタニージャ大佐は、チェの死の決定的な証拠として、CIAが頭部を欲しがっていると言った。セリチ中佐とバルガス大尉がそれを支持した。アブラアム医師は、医学的・倫理的見地から、それに反対した。驚くべきことに、CIAのフェリックス・ロドリゲス捜査官がアブラアム医師の意見を支持し、首を切り落とすのは野蛮であると言った。アブラアム医師は、指紋照合のために、両手首を切断することを勧めた。

 最終的には、手首を切断することになった。その決定は、その場にいた人たちが、外部の誰にも相談せずに行った。その後、そこにいた人々は引き揚げ、CIAのビジョルド捜査官とキンタニージャ大佐が残った。チェの手首の切断は、アブラアム医師の指導の下でキンタニージャ大佐が行い、手首は新聞紙を敷いた机の上に置かれた。キンタニージャ大佐は、チェのデスマスクを取るように、アブラアム医師に命じた。

 「デスマスクを取るために必要なものが、手元にありませんでした。そこで、歯科用のガーゼ、ワセリン、夜間に使用していたろうそくの蝋を使いました。まだ電気の照明器具がなかったため、ろうそくが常備されていたのです」と、アブラアム医師は語った。

 「マスクをはがすとき、皮膚、髪、眉毛、まつ毛、ひげがマスクに付着しました。チェの死に顔は印象的でした。ビジョルド捜査官は、CIAに提出するために、チェの顔とデスマスクの写真をとりました」

 「その後、私は、帰るように言われました。その夜は眠れず、翌朝のとても早い時間に病院に行くと、チェの遺体はすでにありませんでした。遺体が置かれていた流し台には何もなく、ただ、無言の目撃者のように、チェが着ていたシャツだけが落ちていました。私はそのシャツを、流し台の後ろに隠しました」

 アブラアム医師は、のちにそのシャツを回収し、新聞紙に包み、病院の彼の部屋に保管した。その後、バジェグランデの自宅へ持ち帰り、スクレにある父親の家(アブラアム医師の生家)に移し、現在でもプエブラの自宅に保管している。

 1997年、チェの遺骨がバジェグランデの古い空港で発見された。遺骨は、現在はキューバのサンタ・クララ霊廟に安置されているが、それが本当にチェのものであるか確かめるよう、アブラアム医師はキューバ政府に求めている。アブラアム医師は、チェの血に染まったシャツをDNA鑑定すれば、遺骨が本当に「伝説のゲリラ」のものであるか確認できる、と言う。

 遺骨の発掘にかかわった専門家は、遺骨の傷が、公式に発表された検死報告書と一致したと言っていた。しかし、その報告書の内容はいつわりだ。軍の指示で書かれたものだ。

 「DNA鑑定とは別に、単純に、私が保管したシャツに残る傷口を、私が書いた偽の検死報告書と比べてみればいい」

 検死報告書(内容は、パチョ・オドネルが書いたチェの伝記(*2)で知ることができる)には、遺体の9カ所に銃による傷があり、うち5カ所が致命傷となったとある。また、死因は「胸部の傷からの出血」だと記述されている。報告書はわずか1ページ半で、チェの死亡時刻も弾丸の種類も射程距離も書かれていない。

 アブラアム医師が報告書に書いた「偽の」傷は、次のようなものだった。「左鎖骨から肩甲骨へ貫通した銃創」「右鎖骨への銃創、貫通せず、右鎖骨骨折」「右肋骨への銃創、貫通せず」「肋骨の左側面から背中へ貫通した銃創2カ所」「左胸部の第9肋骨と第10肋骨の間から、左脇腹へ貫通した銃創」「右下腿部の中部3分の1に銃創」「左大腿部の中部3分の1に貫通銃創」「右前腕下部3分の1に銃創、尺骨骨折」

 アブラアム医師は、チェの死に関する情報、資料、写真を保管し、沈黙を守ってきた。そして、チェの死から50年がたった今、「チェ・ゲバラの死の真相を語るときがきた」と考えている。

*1 Leticia Montagner Garcia y Raul Torres Salmeron ”Yo hice la autopsia del Che Guevara”

*2 Pacho O’Donell “Che, la vida por un mundo mejor” (Plaza & Janes, 2003)

↑ PAGE TOP

inserted by FC2 system