e-MEXICO

ホーム > 文化・芸術 > 暴力と死は、読まない国の宿命

暴力と死は、読まない国の宿命

フアン・パブロ・プロアル
Proceso 2013/11/08

 救いようがない。メキシコの家庭の食卓では、食事を豊かにする調味料として、文学が話題にのぼることはなくとも、食事にコカ・コーラを欠かすことはない。メキシコの家庭は、年間で平均2613ペソを、炭酸飲料に費やしている。しかし、芸術との関係は、冷えきっている。

 メキシコ地理統計局は、数日前、全国家計調査2012の結果を発表した。メキシコの家庭は、食料、飲料、タバコに収入の34%、交通費と通信費に18.5%、教育と娯楽に13.8%を費やしている。収入の低い家庭では、必需品の購入に収入の52.1%を充てており、教育と娯楽に充てるのはわずか5.2%であった。日常的に消費する主要な品は、ガソリン、トルティージャ、清涼飲料水、携帯電話のプリペイドカード、菓子パンなどであった。この調査結果から、メキシコの日々の現実の中には、詩、映画、演劇、小説、絵画は存在していないことがわかる。

 最も安全な国々は、一般的に、芸術の香りで満ちている。対照的に、最も暴力的で不寛容で腐敗した国々は、通常、最も無教養である。今年4月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、読書の習慣について、メキシコを108カ国中107位に位置づけた。メキシコ人が1年間に読む本の数は、平均2.8冊である。しかし、現実的には、読書をする習慣があるのは、国民のわずか2%だとユネスコは見積っている。

 2001年に設立されたイギリスのリサーチ会社のNOPワールド社は、最も読書する国々のリストを発表した。インドでは、国民は毎週平均10.7時間を読書に充てている。タイでは9.4時間、中国では8時間、ロシアでは7.1時間、スウェーデンとフランスでは6.9時間であった。一方、メキシコはかなり少なく、週に5.5時間であった。「安全と刑事司法のための市民会議」によると、この統計データは、世界で最も危険な50都市のうちで、9都市がメキシコの都市であったことと、無関係ではない。アカプルコは世界で2番目に危険な都市で、2012年の殺人事件は1170件であった。同様に治安が悪いとされた都市は、トレオン、ヌエボ・レオン、クリアカン、クエルナバカ、シウダー・フアレス、チワワ、シウダー・ビクトリア、モンテレイであった。

 これと対照をなすのが、アイスランド、デンマーク、ニュージーランド、カナダ、日本である。いずれも読解力と読書の習慣において高い水準にある国々であり、経済平和研究所の世界平和度指標(GPI)によれば、世界で最も安全な国々と位置づけられている。

 メキシコの現在の混乱状態に終わりはないと予想させる要因は、メキシコの家庭における文学の不在だけではない。読書の習慣が明らかに危機的状況にあるという意見は、確かに妥当だ。メキシコ読書調査によると、読書をすると回答した人は、2006年には国民の56%であったが、2012年にはわずか46%であった。その46%という数値には、書店で最も販売数の多かった作品の質は考慮されていない。つまり、読まれているのは、基本的に自己啓発本とあふれるほどのベスト・セラー本なのである。それに加えて、大部分の市町村には、劇場、文化センター、音楽学校、美術館などがない。これでは、子供たちが「殺し屋」になることを夢見るのも、不思議なことではない。なぜなら、順当に考えれば、それが、貧困を脱出するために現実的に選択可能な唯一の道だからである。

 文化芸術庁(CONACULTA)は、2007年、調査報告書「メキシコの文化インフラの診断」を発表した。この調査の結果によると、国内には、住民18万5725人につき、劇場はひとつしかない。美術館は国内に107カ所あり、住民9万3282人にひとつである。トラスカラ州、アグアスカリエンテス州、キンタナロー州、バハ・カリフォルニア・スル州、カンペチェ州では、州の全住民に対して美術館数は15以下である。文化センターについても多いとは言えず、国内平均では、住民6万1540人につきひとつとなっている。最も少ないのはコリーマ州とナジャリ州で、州の全住民に対して10以下である。

 新政府の活動は、この問題を根本から解決することからは程遠い。エンリケ・ペニャ・ニエト大統領は、制度的革命党(PRI)内での大統領候補者選で、影響を受けた3冊の本の名前と著者を正しく言うことができなかった人物である。この大統領の政府は、2014年の文化関係費を4億ペソ削減することを決定した。これは、下院で可決された文化関係費の予算よりも、23.84%減少することを意味している。

 国家が芸術の推進者として参加することは的外れだと、反論する人は多い。例えば、ホルヘ・イバルグエンゴイティアは、エッセイ「貧者のための文化」の中で、「私にとっては常に、政府による芸術の後援は、取るに足りないものであった。私が知っている限りでは、政府の介入の成果は、非常にわずかである」と述べている。しかし、確かなことは、刺激的で革命的な夢のような機械が芸術の種をまくのでもない限り、国民は、トークショーの司会者やメロドラマの大げさな俳優たちの大騒ぎ、永遠の幸福を約束するセクト的で錯乱したカルト指導者たちを、良心の基準とせざるを得ない。

 米国の映画監督兼脚本家で、映画界の巨匠の一人とされているロバート・マッキーは、その著書「ストーリー」の中で、現代人にとって虚構のストーリーは不可欠であるとし、次のように述べている。

 「今日では一体誰が、経済学者や社会学者、政治家の話を、冷笑せずに聞くことができるだろう? 今では宗教は、多くの人々にとって、偽善を覆い隠す空疎な祭式になってしまった。それらの伝統的なイデオロギーを信じることができなくなったとき、私たちは、まだ信じることができる源へと向かっていった。それは、ストーリーの芸術である。

 私たちがストーリーを求めるのは、人生をどう生きるべきかについての手引きを得たいという、人類の強い願いのためである。単に学問としてだけでなく、個人の感情的な体験の中でも、人生の手引きを得たいと願っているのである」

 メキシコの家庭の食事の時間が、清涼飲料水とラウラ・ボッソ(バラエティー番組の人気司会者)であふれている間は、メキシコのすさまじい悪夢は果てしなく続くだろう。女性や同性愛者を差別して殺害するような状況も、終わらないだろう。子供たちは、敵をバラバラにすることを夢見るだろうし、まるで中世のような無知が、唯一の確かな道徳的基準として君臨するだろう。

 読まない国は、考えない国だ。自由のない国だ。略奪する役人たちの奴隷だ。生きるための最低必需品の奴隷だ。お手軽な幸せを求めるマゾヒズムの中毒患者だ。

 ニューヨーク出身の作家スーザン・ソンタグ(1933-2004年)は、2003年にドイツ出版協会平和賞を受賞したとき、次のように述べた。「文学は、より豊かな生活の場、つまり、自由地帯に入ってゆくためのパスポートだった。文学は自由そのものだった。とくに、読書と内省の価値が執拗に疑問視される時代には、文学は、まさに自由そのものなのである」

 メキシコの家庭は、劇場ではなく、テレビドラマやバラエティー番組のチャンネルに直結している。人生のひとつの生き方として音楽家を夢見る代わりに、「殺し屋」を褒めそやしている。コカ・コーラは最低必需食料品のひとつだ。メキシコがそのような状態にある間は、無知という名の殺人者が、国民の不幸の暴君として君臨し続けるだろう。

↑ PAGE TOP

inserted by FC2 system