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モンテ・アルバン(オアハカ)の暦と碑文

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写真:モンテ・アルバン遺跡博物館の石碑(Mexico Desconocido)

ネリー・M・ロブレス・ガルク
Mexico Desconocido

 古代文明において、石碑は、住民に重要な行事の記録や慣習を伝えたり、年中行事や月日の記号を示す暦の役目を果たしてきました。

 初期の暦と碑文の表記法は、ものを数えたり名付けたりするために使われた初歩的な記号の集まりでした。それは有名なモンテ・アルバン石碑12号、13号に見られるもので、数字の5は人の指のように、1は始まりの点として書き表されます。25世紀前から、人や場所に名前を付けるため、また出来事の日付を記録するために、数を記号(象形文字)や人の顔、姿に関連付けていました。例えばある人物の名前は一つの数字と一つの象形文字で出来ていて、それは生年月日によって決まるものでした。

 これはモンテ・アルバンの最も古い石碑の場合で、踊る人々の像として広く知られています。そこでは象形文字は、人々に名前を与えています。モンテ・アルバンを調査した有名な考古学者アルフォンソ・カソ氏もまた、石碑に記されたこれらの記号と、ある日付に起こった出来事の間に、相関関係があることを発見しました。そのため、この象形文字と人物を識別する作業に打ち込みました。この作業は、後にこれらの石碑や墓石に刻まれたメッセージの意味の核心近くまで迫ることを可能とした多くの協力者をもたらすことになりました。これらの石碑は、非常に重要な神殿や建物の建設を祝う際に公衆が見ることができるように、壁にはめ込まれたり、床にしっかりと打ち込まれたりしていました。

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写真:踊る人々の像 (El Mirador Impaciente)

 もっと後の時代、紀元後100年あたり以降、書記や画家、彫刻家は、ほんの少数の人だけが従事できる偉大な知的事業でした。彼らは生まれた時から厳しい教育を受けなければなりませんでした。その父親もたいてい書記で、芸術や象形文字、表記法について子息を教育しました。非常に若いうちから大変な訓練を積んで学んでいきますが、モンテ・アルバンの中央広場や最も重要な建築物に展示される像を刻むことが許されていたのは、熟達した年配の書記のみでした。

 これら年長の書記の作業は、師匠がそのデザインを刻みこめるように石磨きを担当する若い見習いたちによって支えられていました。見習いは、石を彫ったり磨いたりする過程において不可欠なもの、すなわち水を十分に師匠に補給する責任者であり、また、金槌やツルハシ、削り道具、研磨用の道具、ノミなど、川の石でできた道具について、書記が不満を持たないようにきちんと研がれているか気をつける責任も負っていました。見習いになるのは、大きな責任を負うことなのです。

 暦のシステムは太陽周期に関連付けた記号の取り決めであり、メソアメリカの他の種族と共有していました。サポテカ人も、1年が260日で構成され、20日が13の数字と組み合わされて、結果として260個の異なる名前を生み出す祭儀用の宗教暦と、20日間が18か月と補足の5日間で365日となる太陽暦を持っていました。両暦とも、それが発明された土地からもたらされたものでした。

 その他のメソアメリカ文明の場合と同様、サポテコにおいても宗教暦と太陽暦の勘定が52年に一度一致し、こうして1世紀が終わり、それは人の命と都市のトータルな刷新の時期を意味していました。言うなれば、新しい太陽の時期でした。象形文字は住民の名前や偉大な戦士、地名、重要な出来事といった、集団が共有している記憶の一定の事柄を認識可能とする記号でした。従って、例えば「休息の地」を意味するヨパア、「墓の家」を意味するギチバア、「血のトルティージャ」を意味するゲテトニなどの地名は、オアハカ盆地のサポテカ人全員が知っている象形文字であったといえます。紀元前800-600年あたりに彫られたモゴテの石碑と、同じく紀元前500年あたりに作成されたモンテ・アルバン初期の石碑は、重要な出来事における人物と日付と文字が組み合わされているため、その解読は非常に複雑なものとなっています。石碑には征服や貢物の引き渡し、即位、通過儀礼、その他サポテカ人にとって極めて重要な行事が表現されています。

 これらの石碑のいくつかは建物に同化していて、建物の識別に役立つ場合もありました。というのは、石碑には農業、征服戦争、宗教儀式、政権交代、政治顧問からの支配者への連絡、自己犠牲的行為といった基本的な活動が刻み込まれていたからです。これらの石碑はすべて、住民から見えるように建物正面に細心の注意を払って配置されていました。それは住民が情報を共有し、そのルーツを思い出し、他民族の征服戦争を通して自分たちの支配者の力を高く評価する意図を持っていました。

 通常52年ごとに行われる建物の増設時、石碑は新しい建築物で保護されました。それは、彼らが祭儀を重要なものと考え、石碑が物語る歴史を保存することに非常に熱心であったことを示しています。このことから、建物だけでなく、石碑の碑文も同様に、崇拝の対象であったことがわかります。新たな火の儀式で新しい世紀を始めるに当たり、その土地の歴史の中で最も重要な出来事が、永遠に形に残るように石碑に刻み込んでいました。

 暦は主要な天体である太陽と月の動きをもとに計算されていました。なぜならそれが未来を支配するものであり、最も確かなものだったからです。神官が年中行事の時期を決め、建築物の方位を決定するためには、非常に正確で優れた天体観察の方法を持っていることが重要でした。

 暦の基本原理は他の民族と共有されていたため、定期的に、特に閏年には、余分の日数について民族間で調整する必要があり、それによって季節が変わる時に暦がその正確さを失わないようにしていました。調整のためにソチカルコで重要な会議が開催され、学者でもある神官たちが出席して暦を調整しました。この集まりにはモンテ・アルバンのサポテカ人やマヤブ人、高地の民族の神官たちが出席していました。議論は何日も続き、終了時には神官たちが中央の建築物の石にその会議の記念碑を作りました。こうしてメソアメリカの諸民族で使用する暦の計算が一致したことになります。

 時間は人生や農業、凶日、戦争などの周期を表すものであったため、時間の観念は非常に重要でした。人の一生の周期は時間を計算するための一つの方法で、そこから、人生の節目となる様々な時期を祝うことが重要とされるようになりました。胎児の時期、誕生、学習、出産、死亡という節目があり、一つの時期から次の時期への歩みは村人の前で喜びを持って祝うべき大きな出来事でした。子供の誕生時には占い師が同席し、新生児の将来を占いました。また、人生の障害となる悪い出来事から子供を保護する守護神のような役割の動物、トナを選びました。

 子供が青年になることもまた、大きな喜びでした。武器と仕事道具を身につけた新青年が祝いの儀式で紹介され、社会の構成員として、また軍隊のメンバーとして迎えられました。成人すると家族や仕事、土地の相続を確かなものとするため、そしてとりわけ共同体の中で誠実な人間として認知されるために、結婚する必要がありました。人生の最後には、故人の死後の生活を確かなものにするために儀式が行われ、こうしてこの世を終え、永遠の魂の世界に旅立っていきました。

 他の周期でやはり重要なものが農業でした。生きる糧であったからです。農業の場合はまず農地に供え物をすることが必要で、農地を肥やす血と、大地のような肥沃さの象徴である女性を象った土偶を供えました。土地は住民全員の努力と厳しい労働、そして神官たちが祈りの文句を唱えコーパルの香を焚いて協力し、準備されました。播種期には男たちが種蒔き用の杖か棒と、種でいっぱいの粗布の袋を持って畑へ行き、種を蒔くという大切な作業がありました。この播種にあたって、以前は土地へのあらゆるわざわいを避けるために、断食をしていました。農業で間違いなく最も素晴らしい瞬間は収穫の時で、全員が歓喜の中で作業を行い、そして、これには女性や子供たちも参加しました。収穫は人生を新しくすることであり、すべてをもう一度始めることを意味していました。

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