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ドキュメンタリー「ピーターパン作戦」

サンドラ・ルッソ
Pagina12 2013/09/23

 「ピーターパン作戦(Operacion Peter Pan)」は、エステラ・ブラボ監督が2010年に発表したドキュメンタリーである。このドキュメンタリーは、キューバ在住の米国人エステラ・ブラボ監督に敬意を表して、ウナスル国際映画祭で上映された。アルゼンチンの「戻ってきた孫たち」を題材にした、彼女のもうひとつのドキュメンタリー「僕は誰?(Quien soy yo?)」と共に上映されたのだ。私は実際、エステラ・ブラボ監督に敬意を表して出席することにしたが、私の関心は、「僕は誰?」に集中していた。それにもかかわらず、ひとたび着席し、ピーターパン・チルドレン(ピーターパン作戦で米国に連れていかれたキューバの子供たち)のストーリーが画面に映し出されたとき、1960年から1962年の間に行われたCIAのこの心理作戦について、ブラボ監督が描き切った耳を疑うような内容、隠されてきたこと、その残酷さ、また同時に深い愛情は、非常に感動的で、思いがけないほどであった。そのため、そのストーリーをここで繰り返すことで、ブラボ監督にせめて小さな感謝の印を捧げたい。なぜなら、私の考えでは、ブラボ監督は、世界で起こっていることについて認識を掘り下げ、広げるために、制作を行っているからだ。

 私は、ピーターパン作戦が現実にはどのようなものであったか、まったく知らなかったため、米国のマイアミや他の都市にあった子供たちのためのキャンプ(孤児院)の映像に衝撃を受けた。それらのキャンプは、その2年間、2歳から16歳までの1万4000人以上のキューバの子供たちを宿泊させるために作られた。腹黒い共産主義者から救うために、子供たちをキューバから送り出したのだ。最初に、富裕層の10歳以上の男児が送り出され、その後、プチ・ブルジョア階級の男児、その後女児、その後、より年少の子供たちが続いた。空港の場面は、胸が引き裂かれるようだ。手を振り、ガラスの向こうで泣き崩れる親たち。悲しみに沈んだ様子でアメリカン航空に乗り込む子供たち。子供たちを手放した父親たちや母親たちは、だまされていた。子供たちの多くは、再び両親に会うことはなかったのである。

 それは最初の、そして残酷な衝撃だった。私は、どのようにしてアルゼンチン独裁政権が、何千もの家族を破壊し、何百人もの子供たちのアイデンティティーを奪い取ったのかについてのドキュメンタリーを見に行った。するとそこには、(まだソーシャルネットワークもなく、メディアがグローバル化されて集中してもいない時代に)どのようにして、別の何千もの家族を真ん中で引き裂いた極悪非道な偽りを流布したのかについての、前例があった。それらの家族が子供たちを引き渡し、米国の孤児院で生活させるような方法を取ったのは、子供たちを守りたかったからだ。しかし、親たちは、決して起こらないことから、子供たちを守っていたのである。

 CIAは、マイアミの教会と共謀して、キューバの新政府による法律と思われるものをねつ造した(印刷し、配布し、広めた)。その法律によれば、国家は、ソ連での強制労働に子供たちを送り込むために、両親から子供の親権を取り上げるということであった。心理作戦というのは、この下劣なペテンのことを指しているのである。50年の月日が経った今、その虚言の目的が、子供たちを生きたまま食べる共産主義の幽霊やその他の作り話を作り出すことであったことは、明らかだ。しかし、1960年には、キューバの1万4000人の子供たちの父親や母親は、それを信じたのである。米国大使館は、16歳以下の子供たちの一時査証は発行したが、親たちのための査証は発行しなかった。子供たちは満員のチャーター機で、スーツケースと共に、不確かな運命へと送り込まれた。そして、その運命によって、孤児院は子供たちであふれ、多くの家族が何も知らされないまま、巻き込まれることになった。

 その後、子供たちは引き離され、ごちゃ混ぜにされ、混乱の人生に沈み込んだ。すべての子供たちは、捨てられたと感じていた。ピーターパン作戦からちょうど30年後、それらの子供たちの一人であるエリー・チョベルは、他のピーターパン・チルドレンを探すことを決心した。なぜなら、エリーは、それまでの人生を明確に整理する必要に迫られていたからだ。それは、それまで生きてきた国である米国が仕組んだ偽りが、刻み込まれた人生であった。エリーは、約2000人の気の毒なピーターパン・チルドレンと連絡を取ることができた。彼らは米国で生き、すでに成人の男女になっていたが、しかし、全員が、幼少期から開いたままの傷と共に生きていた。彼らの多くは、孤児院や児童福祉施設、養子縁組先の家族の家で、虐待を受けていたのである。

 エステラ・ブラボ監督は、エリー・チョベルを何度も登場させている。エリーの語る話と、その優しくエネルギーにあふれた声は、ドキュメンタリーの核になっている。というのは、エリーの夢は、彼女の人生を締めくくるために、ピーターパン・チルドレンのグループと共にキューバに戻ることだったからだ。しかし、間に合わなかった。エリーは2007年に亡くなった。ブラボ監督のドキュメンタリーは、今は中年の男女になった5人の元ピーターパン・チルドレンの、2009年の帰国の旅も収録している。「私はキューバを去った。でも、キューバは私の中から、決して去って行かなかった」と、歌手のキャンディ・ソーサは言った。子供のキャンディが孤児院で力強く歌う画像と、大人になったキャンディが同じ豊かな声で同じ歌を歌う画像を組み合わせた場面は、おそらく、このドキュメンタリーが伝える生命の、生き生きとした、力強い願望を集大成している場面であろう。それは、断片をつなぎ合わせ、バラバラだった糸を結びなおし、5人全員に共通する憂愁を解きほぐし、傷から回復するという願望であった。

 エリーは、憎むということをしない女性だった。マイアミに送られたときは、14歳だった。もっと小さいうちに連れていかれた他の子供たちよりも、キューバの思い出をたくさん持っていた。エリーはキューバを愛していた。2009年にキューバに戻った5人のピーターパン・チルドレンも、この心を持っていた。つまり、彼らの中に、屈服していない何かがあり、音、味、言葉、そして、話の中で彼らが「祖国」と呼んでいたものへの愛を、持ち続けていたのだ。

 5人は、キューバの児童劇団ラ・コルメニータの子供たちと交流した美しく純粋な時間の中で、子供たちに、自分たちの物語を語り聞かせる。子供たちは、彼らの幼年時代がどれほど異なっていたかを語る、米国人の外見をした5人の大人たちを、目に涙をためて、あわれみと同情をもって見ている。個別の、または数人単位でのインタビューにおいては、ピーターパン・チルドレンたちは、決して忘れることのできない光景について語っている。孤児院の夜の静けさ。「パパ」「ママ」と叫ぶ幼い声。5人はすでにキューバに旅し、彼らを脅かし苦しめてきた想像上のモンスターに打ち勝った。ドキュメンタリーは、初めは、政治の真の顔でもある残酷さについて語っているが、場面が進むにつれて、愛について語りはじめる。そして、映画館を出たずっと後までも、このドキュメンタリーを見た者に、愛について語り続けているのだ。

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