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銀の覆面レスラー:サント

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バネッサ・メナ
algarabia 2014/06/10

 伝説のプロレスラー"サント"の本名はロドルフォ・グスマン・ウエルタ、1917年9月23日、イダルゴ州トゥランシンゴで生まれた。1934年、プロレスラーになり、オンブレ・ロホ、エンマスカラード、ムルシエラゴⅡ、デモニオ・ネグロなどのリング・ネームを用い、荒っぽいテピート地区(メキシコ市)で試合に出ていた。

 サントの名でアレーナ・メヒコに登場したのは、1942年になってからのことだった。サントのトレーナーのヘスス・ロメリが、全員銀色の衣装を身につけたプロレスラーのチームを作り、サントにも加わるように勧めたのだ。サントは、初めはルド(悪役)のチームの一人として出ていたが、後にテクニコ(善玉)に転向した。その方が、サント(聖人)の名と合っていたからだ。

 間もなく、プロレスラー"サント"の名声は急速に広まった。漫画家で編集者のホセ・グアダルーぺ・クルスが、サントの続き漫画を作り、セピア色の紙に印刷して毎週出版したからだ。この漫画冊子は非常に人気があり、毎週100万部も売り上げていた。

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 1958年、サントは「サントVS悪のブレーン」と「サントVS地獄の男たち」で映画デビューした。ロドリゲス兄弟が制作し、共にキューバで撮影された。しかし、この2作品は低予算で制作され、出来のよくないものだった。これほどの成功を収めるとは、思われていなかったのだ。

 1961年、サントVSゾンビが撮影された。今回は作品の質も向上し、サントを映画スターに押し上げた。大衆受けして人気が出たため、銀色の覆面をつけたサントが遺跡、大都市、西部開拓地など、様々な場所で、ありとあらゆる悪者に立ち向かう長編映画が何本も作られた。

 サントの映画は、「サントVS絞殺魔」(1963年)や「銀の覆面サントVS火星人の襲来」(1966年)のように、ホラーとサイエンス・フィクションを組み合わせたものだった。

 その後、「サントVS吸血鬼女」の成功で、リングのスーパースター"サント"の評判は、メキシコ国外にも広まった。この映画は、蜘蛛の巣と開いた墓に取り巻かれた崩壊した城で、サントがセクシーな吸血鬼女たちと戦うホラー映画だ。女たちを打ち負かすために通信機器やコンバーチブル車などの装置を使用するため、サントはジェームズ・ボンドと比較された。

 70年代になると、サントの映画は、「グアナフアトのミイラ」(1970)、「自殺作戦」(1971)、「サントと黒真珠の謎」(1974)、「ジョローナの復讐」(1974)など、推理ものやフィクション・ホラーが中心となった。

 サントの映画がカラー映画になったのは、「作戦67」と「モクテスマの財宝」以降で、共に1966年に製作された。サントは、合計52本の長編映画に出演した。

 しかし、サントの名声も、1978年から衰え始める。というのは、映画製作者たちの関心が、プロレスラーの映画から、セクシー・コメディー映画に移ったからだ。また、当時サントは、すでに60歳を超えており、スクリーンにもそれが表れていた。サントは1984年2月5日、心筋梗塞で亡くなった。

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