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テキーラ

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写真:テキーラ「ホセ・クエルボ」製造工場に置かれたリュウゼツランの花茎

ホセ・マリア・ムリア
Mexico Desconocido

 テキーラは、リュウゼツランの花茎からとれる果汁を発酵・蒸留して作られる蒸留酒で、メキシコのごく限られた地域でのみ製造されています。

 テキーラは、メスカルとも呼ばれています。メスカルは、ナワトル語で「月の家」 「月のエッセンス」 「家の近くにあるリュウゼツラン」などを意味する言葉です。リュウゼツランの花茎は、巨大なパイナップルによく似ているため、ピーニャ(スペイン語でパイナップルを意味する)と呼ばれています。

 テキーラは、「二つの世界の出会い」から生まれたものです。というのは、アメリカ大陸に非常に古くからある固有の原料を、ヨーロッパ大陸の技術で加工しているからです。

 メキシコにあるリュウゼツランの品種は、200種類ほどですが、それらを利用して、メキシコ各地で、テキーラと同じような蒸留酒が製造されています。リュウゼツランの蒸留酒はメスカルといい、生産地の地名を付けて、オアハカ産メスカル、キトゥパン産メスカル、トナヤ産メスカル、トゥスカクエスコ産メスカル、アプルコ産メスカルなどと呼ばれています。しかし、最も有名なのは、何と言ってもテキーラ産メスカル、通称テキーラです。テキーラは、グアダラハラから北西のサン・ブラス港(かつて繁栄していたナジャリ州太平洋岸の港)へ向かう道の途中、15レグア(約63km)の所にある村で、歴史があり、活気に満ちています。

 植民地時代のテキーラ代官領にあたる現在のテキーラ村とその周辺では、リュウゼツランの生育がよく、大小さまざまな規模のテキーラ製造工場が林立しています。テキーラは、宣伝のためにシンプルに「テキーラ」と呼ばれるようになる前は、「テキーラ産メスカル・ワイン」と呼ばれていましたが、今では、「最もメキシコ的な」アルコール飲料であると、誰もが認めるようになりました。それは例えば、国外で、「メキシコ音楽と言えばマリアッチ」だとか、「典型的なメキシコ人は、メキシカン・ハットとハリスコの「チャロ」の衣装を着ている」などと思われているのと同じことです。実際、現代のマリアッチは、チャロの衣装を身につけているし、マリアッチがテキーラ以外の酒を飲むことなど、ちょっと考えられません。

 16世紀の半ばごろ、スペインからやってきた人たちは、新大陸でのアルコール類の入手が困難であることにいらだち、テキーラ村でメスカルの製造をみずから開始しました。テキーラ村周辺に数多く自生していたリュウゼツランは、当時の入植者たちにとって、はかり知れない価値を持っていました。というのは、リュウゼツランの葉は、屋根をふくための資材になったし、葉を利用して針、千枚通し、留め針、釘、良質の縄、紙、容器などの用を果たすものを作ることができたからです。また、乾燥させた葉は燃料として使用することができ、灰は石鹸や漂白剤、洗剤の代用品として、樹液は傷の治療薬として利用されていました。

 実は、リュウゼツランで最も利用されていなかった部分は、テキーラの材料であるピーニャ(花茎)でした。メキシコの先住民は、ピーニャを加熱し、甘い菓子として食べていましたが、アルコール類を渇望していたスペイン人たちは、ピーニャの糖分の含有率が非常に高いことを知り、おそらく蒸留酒を作ることを思いついたのでしょう。しかし、当時の植民地政府は、この蒸留酒製造を歓迎するわけにはいきませんでした。

 当時の植民地政府は、すぐに蒸留酒の製造を禁止しました。といっても、それは、役人たちが厳格な禁酒主義者だったからではなく、スペイン本国の政府の指示があったからです。本国政府は、スペイン産のワインや蒸留酒を、アメリカ大陸に独占的に輸出することを望んでおり、アメリカ大陸産の蒸留酒が、スペイン産のアルコール類の競争相手になるかもしれないと考えたのです。そのため、テキーラ製造は、開始当初から17世紀半ばまで、秘密裏に行わざるを得ませんでした。17世紀半ばになると、植民地政府は、テキーラの生産量が増加したことと財政難であることを理由に、テキーラ製造を許可して課税することにしました。植民地政府は、テキーラからの税収のおかげで、グアダラハラ市に上水道を導入し、現在のハリスコ州庁舎の元となった行政庁舎を建設することができました。

 18世紀の半ばごろ、サン・ブラス港は、スペインから到着した物資を植民地北西部(現在のハリスコ州周辺)へ送り出す、重要な港でした。新大陸産メスカル・ワイン「テキーラ」は、まさに、サン・ブラス港と植民地北西部を結ぶ道の途中で製造されていたため、この地域の最も重要な輸出品となりました。テキーラ産メスカルは、植民地の北の果てで孤独に耐えるスペイン人を慰めました。また、イエズス会やフランチェスコ会の修道士たちは、カトリックに改宗させられた先住民たちに、テキーラ産メスカルを与えることがありました。先住民たちにたまの息抜きを与え、彼らがあきらめと忍耐 ―「その中にこそ本当の幸福があるのだから」― をもって、征服以前とは異なる生活に耐えるようにすることが目的でした。

 また、テキーラは、ボラーニョス鉱山で働く労働者たちの渇いた喉も潤しました。ボラーニョス鉱山は、平面上の距離はテキーラから遠くはありませんが、山の高地にあり、18世紀の終わりごろには非常に繁栄していました。1821年、メキシコがスペインから独立すると、スペイン産のアルコール類がメキシコに届かなくなり、入手困難になりました。しかし、このことによって、かえってグアダラハラ周辺でのテキーラの売り上げが伸び、メキシコ市や全国の都市でテキーラの販売を開始するきっかけになりました。

 実際、19世紀の半ばには、非常に重要視されるテキーラ工場も現れ、その経営者たちは、すでに大きな政治的影響力を行使するようになっていました。また、その頃、テキーラ村からサン・ブラス港へのアクセスが容易になったために、テキーラの売り上げは一層拡大しました。というのは、この時期の主な消費者は、ゴールドラッシュでアルタ・カリフォルニア(現在の米国カリフォルニア州)にやってきた採掘者たちだったからです。彼らは、1849年にメキシコのアルタ・カリフォルニアが米国に奪われた事実には無頓着で、ひたすら金を探しに、アルタ・カリフォルニアにやってきたのでした。

 そして、1857年、スペイン統治時代から受け継いだ古い社会秩序をついに崩壊させるに至ったレフォルマ戦争が起こりました。テキーラ工場の経営者たちは、自分たちの事業にとって何が利益になるかを熟知していたため、自由主義派が完全に勝利するまで、積極的に支援しつづけました。ところで、かの有名なテキーラ「ホセ・クエルボ」の経営者アントニオ・ゴメス・クエルボは、ちょうどこの時期の1867年、ハリスコ州の知事に就任しました。ナポレオン3世がメキシコの保守派を支援するために派遣したフランス軍が、敗退した後のことでした。

 19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、テキーラに強敵が現れました。米国の鉄道に乗って短時間でメキシコ中に届けられる、ヨーロッパ産の蒸留酒です。このヨーロッパ産の蒸留酒は、フランス好きなメキシコの上流階級を満足させるものでした。そのため、テキーラを飲むのは庶民だけになりましたが、それでも、テキーラの消費量は大幅に増加していきました。

 しかし、結局のところ、テキーラの普及に最も貢献した出来事は、メキシコ革命でした。

 1911年、ポルフィリオ・ディアスの長期独裁体制が崩壊すると、ディアスのフランス化政策も同様に過去のものとなり、メキシコでは突然、メキシコのアイデンティティーを強調するような、独自の表現や習慣を模索する活動が始まりました。輸入品の酒の代わりにテキーラを飲むことも、その活動の一環と考えられていましたが、実際には、もっと重要な意味を持っていました。というのは、メキシコ政府が、メキシコのシンボルとして、テキーラのイメージを丹念に作り上げていったからです。また、メキシコの映画界も、テキーラのイメージ作りに大きく貢献しました。1930-1940年代に黄金時代を迎えたメキシコ映画界は、メキシコ人であること、メキシコ人として振る舞うことについて、表面的でステレオタイプなメキシコ人像を発信しました。映画だけでなく、当時流行した歌の数々も、テキーラのイメージ作りに深くかかわりました。また、1930年代にメキシコ北部でスペイン風邪が流行したとき、人々の間で、テキーラがスペイン風邪に効くといううわさが広まり、テキーラの名声はますます高まりました。このスペイン風邪が流行したころ、商売上手なモンテレイ市では、顧客のニーズに応じて、テキーラの小売り用の小瓶が作られました。テキーラが、酒樽からの不便な計り売りではなく、小瓶に詰めて売られるようになったのです。

 また、その当時起こったメキシコ湾の石油ブームも、テキーラの消費拡大に寄与しました。この拡大の背景には、円筒状の500ミリリットル瓶入りのテキーラが販売されたことがあります。この瓶は、流通時の運搬や携帯に便利で、当時流行していたゆったりした型のズボンの後ろのポケットに入れることもできました。その後、この瓶は、スクリーンにもたびたび登場するようになりました。

 第二次世界大戦のために米国からウイスキーが届かなくなった1940年には、すでにテキーラ業界は、ウイスキーに取って代わることができる状態にありました。当時、テキーラの輸出は予想を超えた伸びを見せましたが、終戦後の売り上げの減少も、目をむくほどでした。そのため、国内市場の拡大と、ヨーロッパや南米の市場獲得のために、多大な努力をしなければなりませんでした。

 テキーラの製造技術は、1950年ごろから格段に進歩しました。多くの工場では、品質を損なうことなしに、衛生管理を強化し、収益を向上させなければなりませんでした。また、アルコール度数の低いテキーラを、低価格で販売するメーカーもありました。一方、できあがるテキーラの品質は別としても、リュウゼツランの栽培に適した地域がハリスコ州以外にもあることがわかったため、拡大した市場の需要も、不足なく満たすことができました。

 リスボン条約などの国際条約では、メキシコの特定の場所で製造されたテキーラだけが、本物であると定められています。しかし、偽造品対策に関心のない国が多いためか、テキーラは、残念なことに、様々な国で偽造されています。

 今日、ハリスコ州の中央には、独特の印象を与えるリュウゼツラン畑が帯状に広がっていて、30万人以上の人々が、直接的であれ間接的であれ、テキーラ産業に関わっています。それらの人々はみな、メキシコ西部の人々の生活とは切り離せないテキーラの生産に携わることを誇りに思い、メキシコのシンボル「テキーラ」を世界中に届けることに喜びを感じています。

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