e-MEXICO

ホーム > ニュース > 10月2日、忘却に対する戦い

10月2日、忘却に対する戦い

人が権力に対して戦いを挑むことは、記憶が忘れ去られないように戦うということだ。(ミラン・クンデラ)

ロマン・ムンギア・ウアト
Rebelion 2012/10/05

 よく聞かれることであるが、1968年のメキシコの学生運動と、今日の学生運動「私は132番目」の間には、類似点や相違点があるだろうか。私たちは、この二つの運動との距離を取り、比較しながら見なければならない。というのは、68年の学生運動は、メキシコ国民に共通の、歴史的な記憶の中に生き続ける、歴史上の出来事となっているからだ。そうしたメキシコ国民の、過去と現在における社会的な戦いは、より良い未来と、民主的で公正、平等な社会を、真に熱望していることを表している。未来社会における社会的平等とは、現代社会においてはびこるすべての社会悪を克服したということの、物質的、精神的な表現となるだろう。なぜなら、現代社会では、例えば暴力が各層の住民を、非情にもせん滅させてしまうからである。この暴力というものは、多くの場合、まさにメキシコ国家自体が行うもので、時には無処罰のテロリズムの形式で行われる。あの不幸な1968年10月2日に、何百人もの学生、教師、市民が虐殺された事件もその一つだ。それは、制度的革命党(PRI)のグスタボ・ディアス・オルダス政権によって遂行された、大虐殺であった。

 68年の学生運動は、逆説的なことに、大学教育の分野に関連のある要求から生まれたものではなく、政治的な要求から生まれた運動であった。68年の学生たちの要求は、厳密な民主的要求であった。それは、今日の「私は132番目」運動の若い学生たちの要求ともなっていることだ。あれから44年が過ぎたが、世の中は大きく変わらなかったように思われる。68年の学生運動が、寡頭政治の利益と対決し、メキシコの民主化の過程に貢献したことは、確かなことだ。ディアス・オルダス体制は、その寡頭支配の権威主義を、非常によく表す一例であった。しかし、もうひとつ確かに言えることは、この過程の前進が、さほど強固なものではなかったため、メキシコにおける真の民主的な変革を実現できなかった、ということだ。私たちは、あのトラテロルコの虐殺を、国民行動党(PAN)のカルデロン体制が行ってきた虐殺と、比較してみる必要がある。比較の結果は、類似点と相違点が半々であるが、メキシコにおいて国家による暴力が引き続き行われていることは、事実である。

 そして今日、私たちは、権威主義と弾圧の体制への回帰という、ひどい帰結を目にしている。その体制とは、トラテロルコ大虐殺を行ったディアス・オルダス大統領の後継者、エンリケ・ペニャ・ニエトによる体制だ。ペニャ・ニエトは、メキシコ州知事時代の2006年に、メキシコ州アテンコの住民を弾圧したとき、ディアス・オルダスとほぼ同じ、恥知らずな言葉で語った。「このアテンコの事件に関する倫理的、道徳的、法的、歴史的責任は、私が引き受ける」

恥知らずな御用新聞記者

 政府系新聞の記者の中には、68年の学生たちは政府と対談の機会を持ったが、「私は132番目」の学生たちはそれをしない、と書き立てている者たちもいる。しかし、その対談の中で、あの不吉な大虐殺が待ち伏せていたのだ。対談をしていなかったら、あの大虐殺は起こらなかっただろう。あの不透明な時代の学生運動の、非常に多くのリーダーたちは、今やその過去を臆面もなく完全否定し、労働改革など新自由主義の「構造」改革に賛同したり、大学の中で専制を敷くお偉方の腰巾着の一人になっていたりする。

権力闘争

 先週の火曜日(10月2日)、グアダラハラ市において、今年もまた、この歴史的な日を記念して人々が行進し、最後はグアダラハラ大学総長室脇で集会を行った。ハリスコ拡大戦線(FAJ)によって組織されたデモは、非常に闘争的だった。集会の開催は、学者たちで構成される大学を考える会(CRU)のエンリケ・クエバス氏が担当した。この集会は、学生と市民が民主主義を切望していることの一つの例であった。より闘争的であったのは、グアダラハラ大学基金のラウル・パディージャ・ロペス代表の学内独裁と、まったく消え去っていないPRI支配への回帰に対しての拒絶を、参加者が力強く、声をそろえて叫んだことであった。

 グアダラハラ市のランブラ・カタルーニャでは、学生自治会(FAU)と「私は132番目」地元支部に所属する学生のフェルナンダ・フストさんが、68年の大虐殺の生存者であるアルカディア・ララ氏や、CRUの教師のエクトル・エルナンデス氏の、感動的な証言について発言した。その発言の内容は、68年の学生運動の民主的な精神に従ったものであった。FAJの声明文の一部は次のようなものだった。「私たちはここに、私たちの国にとって、私たちの青春にとって、私たちの労働者階級にとって、最も悲惨な記念日のために集まっている。しかし、それだけでなく、私たちは、国民に対する暴力がまだ終わっていないことをも、訴えている。そして、強制に対して戦っている。この強制は、金と策略と偽りにまみれ、国内外の権力者の利益を保護する、殺人者であり無知な一人物を押しつけることだけに、とどまらない。この強制は、いわゆる構造改革への道筋をも、表しているのだ。構造改革は、労働者、若者、被抑圧者への新たな攻撃に他ならない。また同様に、何千何万もの死者、行方不明者を出している、国民に対して行われている真の戦争を継続するということでもある。この強制は、新しい弾圧の波を示している。それは、あの68年10月と同様、変化を起こそうとしている人々への、沈黙することを拒絶する私たちへの、そして、自由と正義への弾圧である」

 また、FAUの声明文の一節はこう述べている。「今日という日に、私たちは、より一層警告する。私たちが怒りと憤りを覚えるこの傷は、過ぎ去った年だけのものではないと、そして今日、私たちは、今までにないほど戦いのために立ち上がったと、警告する。私たちは、現在の状況を認識している。この状況において、反民主的な体制と、国内外の大企業家や寡頭支配層の利益に応える一連の制度を通して、旧弊な権威主義という、体制の最も腐敗した部分を象徴している傀儡大統領が、私たちに押しつけられようとしているのだ」

↑ PAGE TOP

inserted by FC2 system