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メキシコの国旗の歴史

世界で最も美しいとされるメキシコの国旗は、現在のすばらしい国旗になるまでに、様々な変遷を経てきました。

ギジェルモ・M・モトリニア、アンヘル・ガジェゴス
Mexico Desconocido

1. イダルゴ神父の軍旗

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 聖母マリアを描いた旗を掲げ、「ドローレスの叫び」をあげるミゲル・イダルゴ神父の絵を、覚えていますか? 歴史家たちによると、あの有名な絵には間違いがあります。というのは、1810年9月16日の明け方、イダルゴ神父が旗を掲げたのは、ドローレスではなく、その後、その場で結成された反乱軍と共に、アトトニルコ村を占領したときだからです。祖国の父イダルゴは、聖母像の油絵をアトトニルコ村の教会堂で見つけました。イダルゴ神父はそれを額縁から抜き取り、独立運動の象徴・記章として、イダルゴ神父に従ってきた男たちに渡し、軍旗としたのです。

 言い伝えによると、副王軍がイダルゴ神父の軍を打ち破った戦いの後、アクルコで見つけたのが、この旗でした(本当にこの旗であったかは、証明されていません)。修復された後、ビージャのグアダルーぺ寺院やモネダ通りの旧国立博物館など、様々な場所で展示され、その後、メキシコ市のチャプルテペック城にある歴史博物館に移され、現在も、同様のグアダルーぺ像が描かれたもうひとつの旗と共に、展示されています。

 イダルゴ神父のグアダルーぺ聖母像の軍旗は、この独立運動のような大規模な運動から生じた、メキシコ人民の団結の、最初の偉大なる象徴であると考えられています。

 ミゲル・イダルゴの軍旗についての詳細はこちらへ。


2. モレーロスの旗

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 独立運動開始から数カ月後、反乱勢力は、中心に聖母グアダルーぺが描かれた水色の旗を採用しました。そのグアダルーぺ像は、その後、ウチワサボテンにとまっている王冠を頂いたワシの絵と置き換えられました。その絵は、アステカの古都の起源と創設を思い起こさせるものであり、ワシの絵が描かれた最初の旗となりました。

 ホセ・マリア・モレーロス・イ・パボンは、この旗を反乱軍のアイデンティティーとして、はっきりと特定しました。その部下たちは、独立のために戦いながら、メキシコ南部全域を歩き回る間、この旗を記章にしていました。


3. 三つの保証軍の旗

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 緑、白、赤を使用した最初の旗は、1821年3月にイグアラ綱領が発表された後、作られた旗でした。この旗が初めて公の場に登場したのは、同じ年の9月でした。アグスティン・デ・イトゥルビデとビセンテ・ゲレロが、三つの保証軍の先頭に立って、首都に凱旋したときのことです。それは、独立戦争の終結を意味していました。この旗が現在の国旗と異なる点は、しま模様が垂直ではなく、斜めであることと、宗教、独立、団結を意味する白、緑、赤の並び順が、現在とは異なっていることです。また、中心に描かれた王冠は、後にイトゥルビデ自身が皇帝を名乗ることになる最初のメキシコ帝国への移行を象徴していました。


4. 最初の帝国の旗

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 その後、1821年11月2日に、アグスティン・デ・イトゥルビデは、旗の色が最終的にこの三色となること、ただし、しま模様は垂直に、イタリア国旗と同じ順番で配置されることを決定しました。というのは、独立主義の理念の多くは、イタリアの修道会イエズス会に由来するものであったからです。この配色に、湖の岩に生えたウチワサボテンの上に左足でとまるワシが加えられました。また、そのワシは、すでに正式に成立していた帝国の象徴として、王冠を頂いていました。現在と同じ色の並び順と、中央で際立つウチワサボテンの上のワシという、力強いシンボルを持つこの旗は、最初のメキシコ国旗であると考えられています。


5. サン・ブラス大隊の旗

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 この旗は、1847年9月13日、チャプルテペック城を勇敢に防衛した大隊の旗であったことで有名です。この旗の興味深い点は、第一に、それまでは左側、つまり旗をつるす旗竿側に配置されてきた緑色が、右端に配置されていることです。第二に、ワシ(1823年、イトゥルビデの時代から使用されるようになった)が、正面を向いて翼を広げ、荒々しくヘビをくわえていることです。そして、このワシの旗の下に、ついに「サン・ブラス大隊伝説」が生まれたのです。というのは、この旗は、チャプルテペックの丘の頂で最後まで戦い、敗北したサン・ブラス大隊の旗であったからです。

 メキシコ政府と米国政府による合意後の9月13日、と言っても、ずっと後の1950年のことですが、米国による侵略戦争中は米軍に奪取されていた重要な国旗、軍旗、三角旗の数々が、メキシコに返還されました。メキシコの領土を守るための、メキシコの兵士たちの戦いの証しであるこれらの旗は、修復され、現在は、美しいチャプルテペック城にある国立歴史博物館に、他の展示品と共に展示されています。


6. マクシミリアン帝政の旗

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 1863年、フランス軍がメキシコの首都を奪取すると、ある人物がメキシコにやってきました。その人物、マクシミリアーノ・デ・ハブスブルゴの生涯は、非常に悲劇的なものでした。

 妻のカルロータと共にメキシコにやってきたマクシミリアーノは、ヨーロッパ(フランスとオーストラリア)の古い家柄の子孫であり、極度に分裂していたメキシコを統治しようと試みました。しかし、メキシコで彼を支持したのは、当時、フアレス大統領とその全閣僚を追放したところであった保守派の政治家たちだけでした。

 短命の弱い帝国を作ったマクシミリアーノの業績には、この即席皇帝の善意の試みがいくつか見られます。それは、国立博物館の再編成、メキシコ市の最も美しい大通り(レフォルマ通りのこと。チャプルテペック城と市中心部を結ぶためであった)の設計、歴史的にまったく重要性のない旗の発表でした。この旗には、基本の三色がそれまでと同様に配置され、特徴であるヘビをくわえたワシのシンボルが描かれていました。しかし、それはむしろ、ヨーロッパの貴族や宮廷の盾形の紋章を連想させる、様式化されたデザインになっていました。この紋章の上に、成立したばかりの二番目の「メキシコ帝国」を明確に示す、光り輝く大きな王冠が描かれていました。妻のカルロータは、夫の赦免をフアレス大統領に数えきれないほど請願したにもかかわらず、マクシミリアーノは、ケレタロのセロ・デ・ラス・カンパーナスの丘のふもとで銃殺されました。マクシミリアーノの死後、この旗も少しずつ忘却の彼方へ追いやられ、次の新しい国旗に道を譲ることになりました。


7. ポルフィリオ・ディアス時代の旗

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 フアレス大統領の死後、フランスによる介入の時代の偉大なる栄光の軍人としてすでに有名であった人物が、再び舞台に登場します。その名はポルフィリオ・ディアス。

 一連の蜂起の後、ディアス将軍は権力を握ります。初めに敵対者たちを排除し、それからほぼ30年間、大統領の座に居続けました。ディアス政権(むしろ独裁)の30年間に、ディアスが(国民生活の全分野にわたって)実施した多くの変革の中に、新しい国旗の発表がありました。

 大体において、この記章は、現在の国旗のものに非常によく似ていますが、ワシは正面を向いてヘビをくわえ、大きなウチワサボテンの上にとまっています。異なる点は、勝利の印として、中央の記章が半ばまで、非常に古典的な月桂冠で囲まれていることです。

 フランシスコ・マデロによる革命がはじまり、その後、ディアス政権が打倒されたため、ディアス大統領は、国外に追放されました。そして、追放された先のフランスで、彼の旗が、別の似たような旗に取り替えられていく様子を見ることになりました。新しい旗は、民主主義の新しいシンボルを取り入れたものでした。数年後、新しい国旗を作るための議会が招集されました。ディアス将軍はすでに永眠していたため見ることのなかったその新しい国旗は、長い年月を経て、メキシコ人や外国人の心をとらえることになります。


8. 現在の国旗

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 1916年、ベヌスティアーノ・カランサ大統領は、政令(9月20日)を発令しました。その政令には、国旗に紋章(当時すでに、メキシコの国章であると公認されていた)が描かれることが明記されていました。しかし、このモデルでは、ワシは横顔を見せ(19世紀半ばにすでにあったように)、翼は攻撃の態勢を取り、例のガラガラヘビをくわえています。アステカの人々がテノチティトランの都を建設した場所の象徴として描かれているのです。この記章にはただひとつ、メキシコ合衆国という伝説だけが、付け加えられていきます。

 グスタボ・ディアス・オルダス大統領が発令した1968年6月17日の政令で、「国章国旗及び国歌の特徴と使用に関する法律」が定められるまで、メキシコの国旗は、このような歴史をたどってきました。それ以降、私たちの旗は、その色と力強い紋章(図案・描写ともに非常に優れている)を誇らしげに輝かせ、そよ風にはためきながら、多くのメキシコ人や外国人に、世界で最も美しい旗を見る感動を与えています。

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