e-MEXICO

ホーム > 文化・芸術 > 日本で愛され、メキシコで嫌われたメキシコ人ボクサー、ジョー・メデル

日本で愛され、メキシコで嫌われたメキシコ人ボクサー、ジョー・メデル

メキシコ人ボクサーのジョー・メデル “ウィトラコチェ” は、メキシコの国民的ボクサーを倒してメキシコ人に嫌われ、日本の国民的ボクサーを倒して日本人に愛されました。

foto

 メキシコ人から嫌われたメキシコ人ボクサーをひとり挙げるとしたら、メキシコ市のテピート地区出身の “ウィトラコチェ” ジョー・メデル(本名ホセ・メデル)の名前が挙がると思います。メキシコでは人気のなかったジョー・メデルですが、日本では人気があり、最も愛されたボクサーのひとりでした。

 ジョー・メデルは、地元のテピート地区でレモン売りをしながら、17歳のころから、プロボクサーになるためのトレーニングを始めました。メデルは、ウィトラコチェ(*1)のように青みがかった褐色の肌をしていたため、ジムのトレーナーが “ウィトラコチェ” と呼びはじめ、それがデビュー後のニックネームになりました。

foto

またたく間にスターになったジョー・メデル

 若いながらもすぐれた技術と強烈な左パンチを持っていたジョー・メデルは、プロデビュー後は連戦連勝でした。そして、またたく間に「メキシコで最高のサウスポー」の異名をとり、アレーナ・コリセオのスターになりました。

 ジョー・メデルは、試合をするたびに強くなっていきました。キャリアを積み、のちにはチューチョ・ピメンテルやエドムンド・エスパルサなどの有名選手にも勝利するほどの実力をつけました。しかし、メデルは1959年8月1日、倒してはいけないボクサーを倒すという、致命的な間違いをおかしてしまいました。そのボクサーとは、メキシコで絶大な人気を誇った国民的ボクサーの “トルーコ” ホセ・ロペスでした。

foto
写真:“トルーコ” ホセ・ロペス。メキシコの国民的人気ボクサー

 メデルは、トルーコに勝利すれば喝采と声援を浴びることができると思っていましたが、そうはなりませんでした。勤め人も商店主も、主婦も酔っ払いも、あらゆる人たちが、「なぜ皆のスターであるトルーコを倒してしまったのか」と騒ぎ立てました。というのも、貧しいレンガ職人からチャンピオンとなって、富と名声を手にしたトルーコの人生は、庶民の夢と希望そのものだったからです。ところで、少し話は逸れますが、トルーコは職人だったころ、トレオ・デ・クアトロ・カミーノス(闘牛場)の建設に従事しましたが、その同じ闘牛場で、のちにボクシングの試合をすることになりました。

メキシコの人々は、メデルがトルーコに勝つのがいやだった

 WBC会長だった故ホセ・スレイマンは、あるドキュメンタリー番組で、「ジョー・メデルは、ボクシング界の宝とか国民的スターとかになれるような人物でしたが、そうはなりませんでした。なぜなら、ジョー・メデルはトルーコ・ロペスに、議論の余地のないほど圧倒的に勝利してしまったからです」と語りました。

 人々は、トルーコが相手を一撃でKOするところを見るのが大好きでした。また、トルーコが貧しい階級から這い上がり、豪快で派手な生活をしていること(大勢の女性たち、盛大なパーティ、いつも勘定の2倍のチップを置いていくこと、とりわけプルケ酒が大好きでたくさん飲むこと)も、人々から愛される理由のひとつでした。一方、ジョー・メデルは、やはり貧しい階級の出身でしたが、トルーコとは逆に、折り目正しく、悪習にも染まらず、ボクシングで得た富と名声を堅実に維持していくことができるボクサーでした。

トルーコとの再戦、日本への移住

 人々がメデルとトルーコの再戦を望んでいたため、1960年11月19日、リターンマッチが行われました。結果は、前回以上に人々の期待を裏切るものでした。ジョー・メデルは、12回戦の9ラウンド目でトルーコをKOし、人々は再びジョー・メデルに背を向けました。優れたテクニックを駆使して正々堂々と戦って勝利したことも、ボクサーとしても家庭人としても真面目に正しく生きてきたことも、何の役にも立ちませんでした。人々の称賛を得ることはできなかったのです。

foto

 この試合のあとほどなくして、メデルは日本に移住することを決めました。日本での初試合の相手は、当時日本の国民的ボクサーだったファイティング原田で、結果はメデルのKO勝ちでした。メデルは日本では称賛され、すぐに人気を得ることができました。自国のメキシコでスター選手を倒しても得られなかったものを、日本では得ることができたのです。

パワーファイトと礼儀正しさで日本人に愛される

 メデルは日本で試合をし、勝ち続けました。また、イギリスやブラジル、アメリカなどでも有名なボクサーたちと対戦し、すべての試合で勝利しました。日本の人々は、メデルを日本の選手とみなして応援するようになりました。メデルの顔立ちがどこか東洋人のような印象を与えたため、親近感を抱きやすかったのかもしれません。

foto
写真:ジョー・メデル対ファイティング原田

 1967年1月3日、ジョー・メデルは再びファイティング原田と対戦しました。この試合は世界タイトルマッチでしたが、メデルは判定で敗れました。世界チャンピオンになるというメデルの夢は、かないませんでした。

foto

 この対戦の後、メデルは日本で試合を続けていくことも可能でしたが、メキシコに帰りたい気持ちが大きかったため、帰国しました。帰国後は家族と共に生活し、若手選手の育成に従事しました。2001年2月1日、メデルはがんで亡くなりました。葬儀には家族と、メデルを慕っていた数人のファンが参列しました。

*1 ウィトラコチェは黒穂病に感染したトウモロコシ。珍味として食べられている。


(メヒコデスコノシード)

↑ PAGE TOP

inserted by FC2 system