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メキシコの鉄道の歴史

アステカの地に鉄道が敷かれたのは、19世紀のことでした。鉄道は、重要な移動手段となり、メキシコの経済と交通事情に革命的な変化をもたらしました。

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foto:Mexico desconocido

Mexico desconocido

 メキシコで最初の定期便鉄道が、メキシコ市からベラクルス港までの約432キロメートルの区間で運転を開始したのは、1873年のことでした。技術の進歩によって、メキシコの長年の夢が実現したのです。鉄道敷設の最初の認可が下りてから、40年の月日が経過していました。

 それまでは、植民地時代も独立後のメキシコでも、人々は、国内の主要な街道を、ラバで移動していました。それらの主要な街道のひとつに、大西洋と太平洋を結ぶ街道がありました。大西洋岸のベラクルス港から、首都のメキシコ市を通り、太平洋岸のアカプルコに達するルートでした。この街道の一部分(メキシコ市=ベラクルス間)で、メキシコ最初の汽車が、定期運転を開始したのです。フェロカリル・メヒカーノ(メキシコ鉄道)と名付けられた、この鉄道会社は、技術的な改良を加えながら、現在も営業しています。メキシコに鉄道が敷かれるまでの、長く熱いストーリーを紹介します。

一世紀半を超える努力

 1825年、イギリスの貨物列車が、ストックトンを出発し、ダーリントンに到着しました。この貨物列車は、世界初の蒸気機関車でした。一方、メキシコでは、そのころすでに、メキシコに鉄道を敷く計画が持ち上がっていました。メキシコの法律の中で、鉄道について初めて言及されたのは、1824年でした。また、1833年には、ニューヨークで、「メキシコ合衆国における鉄道敷設についての所見」という匿名記事が発表されました。この記事は、メキシコ市とベラクルスを結ぶ鉄道を敷く構想について書いたものでした。

 1837年8月22日、鉄道敷設の最初の認可が下りました。当時の大統領は、アナスタシオ・ブスタマンテでした。認可を受けたのは、ベラクルス出身の実業家で元財務大臣のフランシスコ・アリジャガでした。アリジャガが受けた認可は、メキシコ市とベラクルスを結ぶ複線の本線と、プエブラへの支線を敷設するためのものでした。認可の期限は30年間で、認可を受けるために100万ペソを国庫に納めました。アリジャガは、現地を視察後、鉄道のルートを、ベラクルスからサン・フアン(ベラクルス港から20キロメートル強の地点にある村)までとし、そのルートにハラパ、コルドバ、オリサバなどの大きな都市を含めないことを決定しました。しかし、このプロジェクトは、うまくいきませんでした。

 1842年5月31日、アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ政権は、第二の認可を出しました。認可を受けたのは、ペロテ=ベラクルス交通債権者委員会でした。この委員会は、19世紀のはじめに、ベラクルスの交通事情を改善するために、貸付を行っていました。この認可は、ベラクルスからサン・フアンまでの鉄道が開通した時点で、委員会が債権を回収することを規定していました。1842年11月30日、ベルギー人技術スタッフとイギリスから取り寄せた資材で、工事が始まりました。8年後、メキシコで最初の鉄道が、ベラクルスからエル・モリーノまで開通しました。全長11.5キロメートルでした。初運転に招待された大勢の人々が、緊張の面持ちで乗り込んだ客車は、ベルギーで製造された機関車「ラ・ベラクルサーナ」に引かれ、当時としては驚くべき速さの時速40キロメートルで走りました。しかし、メキシコの政府は、この初運転に満足せず、鉄道プロジェクトは、1850年、政府に移管されました。

 第三の認可は、1853年10月31日、イギリス人のジョン・ローリー・リカードが取得しました。しかし、結果を残さないまま、1855年8月、認可は取り消されました。同じ年、エルマノス・モッソ社が認可を取得しました。エルマノス・モッソ社の計画は、すでに開通していたベラクルス=エル・モリーノを起点とし、プエブラ市とジャノス・デ・アパム地方を通って、メキシコ市まで達する鉄道を建設するというものでした。この認可は、1856年10月、オリサバの企業家アントニオ・エスカンドンに譲渡されました。エスカンドンは、フェロカリル・メヒカーノの設立に決定的な役割を果たしました。翌年の1857年、メキシコ市とビジャ・デ・グアダルーペを結ぶ区間が開通しました。その年の終わりごろ、エスカンドンは、米国人技術者のアンドリュー・タルコットと契約するため、米国を訪れました。タルコットは、オリサバを通る路線やプエブラへの支線など、フェロカリル・メヒカーノの路線を決定しました。その後、エスカンドンはイギリスへ行き、フェロカリル・メヒカーノへの出資者を募りました。

 フェロカリル・メヒカーノの定期便列車は、1863年には、ベラクルスからメキシコ市方面に向かう、41キロメートルの区間で運転していました。翌64年、エスカンドンは認可を譲渡し、ロンドンにメキシコ帝国鉄道有限会社を設立しました。マクシミリアーノの敗退後、フアレス政権は、鉄道プロジェクトを優先課題と判断し、エスカンドンが外国の侵略者と協力することに目をつぶりました。鉄道工事は続き、1869年9月16日、フアレス大統領と大勢の随員を乗せた汽車が、メキシコ市とプエブラ市の間を初運転しました。

 この時点で、敷設された線路は、205キロメートルに達していました。そして、その後の3年間で工事が急速に進み、残りの228キロメートルの線路も完成しました。

 長い間待ち望まれていた、メキシコ市とベラクルスを結ぶ鉄道が、1873年1月1日、開通しました。当時の大統領は、セバスティアン・レルド・デ・テハーダでした。

 その後の数年間、フェロカリル・メヒカーノは、本線に隣接した地域を支線で結ぶための工事を継続し、オメトゥスコ=パチューカ線やアピサコ=プエブラ線が開通しました。また、19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、ムニョス=チグナウアパン線、サン・マルコス=イスカキストラ線、サンタ・アナ=トラスカラ線、コルドバ=コスコマテペック線も開通しました。

 フェロカリル・メヒカーノは、1946年に国営化されるまで、民間企業として営業していました。その後、1970年代に、フェロカリル・メヒカーノはメキシコ国有鉄道に合併されました。

 1970年代から90年代にかけて、メキシコ国有鉄道の旧フェロカリル・メヒカーノ部門は、技術とサービスが向上したことによって、劇的な変化を遂げました。様々な区間でルートが変更され、コンクリートの枕木が敷かれ、太いレールが使用されるようになり、多数のトンネルや橋、跨線橋、高架橋の建設工事が行われるなど、多くの改善が加えられました。この時代に行われた工事のひとつが、崖の中腹を橋とトンネルが横切るペンシル・トンネル橋で、1996年、デンマークで開催されたブルネル賞の鉄道インフラ部門で、優秀賞を受賞しました。

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写真(上)ペンシル・トンネル橋 (下)メトラック橋

フェロカリル・メヒカーノの歴史をたどる旅

 フェロカリル・メヒカーノの歴史をもっと知りたいなら、選択肢はいろいろあります。そのひとつは、汽車に乗ってみることです。現在残っている路線は、北西部を走るチェペ(チワワ太平洋鉄道)やハリスコ州のグアダラハラとテキーラを結ぶテキーラ・エクスプレスなど、わずかですが、汽車が進むにつれて車窓に見える自然や、都市と村の風景を、十分に堪能することができます。文学作品に出てくる風景を現実に見たり、ホセ・マリア・ベラスコやカシミーロ・カストロ、サルバドール・ムリージョなどの画家たちが描いた絵画の風景を楽しむことができます。また、フェロカリル・メヒカーノが建設した初期の鉄道跡をたどってみるのも、おもしろい選択肢です。鉄道跡といっても、現在も運転している鉄道もあれば、もう使われていないものもあります。また、別の用途に利用されているものもあります。例えば、コルドバとオリサバの間にあるメトラック峡谷を横断するために、19世紀に建設されたメトラック橋は、現在は利用されていませんが、一見の価値があります。また、ベラクルス駅の駅舎は、建築当時から現在に至るまで、変わらずに利用されています。ベラクルス駅舎は、メキシコの鉄筋コンクリートの建物としては、最も初期に建築されたもので、建築物として価値の高いものです。

 フェロカリル・メヒカーノの建築物の中で、現在は別の用途に利用されているものとしては、旧プエブラ駅があります。この建物は、1988年以降、国立鉄道博物館になっています。

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