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囚人1568号、プエンテ・グランデの恐怖の独房から

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写真:ダニエル・アリスメンディ、マリオ・アブルト、アギラール・トレヴィーニョ、カロ・キンテーロ。プエンテ・グランデからの証言 (Especial)

マテオ・トゥリエール
Proceso 2013/07/16

 独房では、自殺することさえできなかった。まったく全裸で収監され、手の届く範囲には何もなかった。なぜなら、「犯罪学上の鑑定(その鑑定とは、名前と年齢を質問することだった)」を行った医師たちが、ヘスス・レムスは極度に危険な囚人であり、手元にあるどのような物からでも武器を製造することができる、と鑑定したからだ。

 裁判官は、レムスに「更生プログラム」を受けることを命じた。そのため、レムスは、グアナフアト州のプエンテシージャス刑務所から、ハリスコ州のかの有名なプエンテ・グランデ連邦刑務所に移された。レムスが「絶滅の刑務所」と呼ぶプエンテ・グランデ刑務所では、レムスに1568号という囚人番号がつけられ、刑務所での3年間、その番号で呼ばれた。

 プエンテ・グランデ刑務所には、最も危険な囚人たちを独居監房に収容する特別監視棟(COC)があり、レムスは、そこに6カ月間収容された。COCでは、「悪党ども」は下を向いて歩かなければならない。「悪党ども」というのは囚人たちのことで、刑務官が囚人たちをそのように罵倒するのだ。レムスは、「囚人たちには何の権利もないため、その呼び名を受け入れていた」と語る。

 元服役囚たちは、刑務所内では、外の人々には理解されにくい深い友情や連帯の絆が結ばれる、と言う。しかし、刑務官がレムスは新聞記者だと伝えたため、レムスは、他の囚人たちの信頼を、少しずつ勝ち取っていかなければならなかった。

 COCでレムスに与えられていたのは、トイレットペーパーの切れ端2枚だけだった。ある囚人が、「気晴らしに壁に絵を描いて、後で消すように」と言い、先の尖った石墨をくれた。

 独房に閉じ込められ、孤独のために正気を失ってしまわないように、レムスは、囚人たちが語る話を、トイレットペーパーに書き留めるようになった。その破れやすいトイレットペーパーを靴の中に隠し、12日ごとに面会に訪れる妻に渡していた。

 こうして、ヘスス・レムスが今日発表した著書「悪党ども -プエンテ・グランデ刑務所からの事件報道」が生まれた。この本は、エル・モチャオレハスことダニエル・アリスメンディ、フアン・サンチェス・リモン、アルフレド・ベルトラン・レイバ、ラファエル・カロ・キンテーロなど、メキシコの大物犯罪者たちがレムスに語った、非常に衝撃的な証言やエピソードを集めたものだ。

 レムスは、インタビューをしたのではなく、ドミノの勝負の合間や余暇時間に、くだけた雑談の中でそれらのエピソードを集めた、と明かした。また、それぞれの話の裏付けをとることなく、「刑務所内の暮らしぶりを写真に撮る」ように、聞いたままを書き記したと述べた。

 投獄されていた間、刑務所内での待遇を改善してもらうために、刑務官を買収することはできなかった、とレムスは語った。莫大な経済力を持つラファエル・カロ・キンテーロのような人物も、皆と同じものを食べていた。エル・チャポことホアキン・グスマンがプエンテ・グランデ刑務所に収容されていた時代とは、すべてが変わっていた(エル・チャポは、ビセンテ・フォックスが大統領に就任した1カ月後、2001年1月19日に脱走した)。

 レムスの刑務所友達のひとりだったエル・ガトは、当時エル・チャポは刑務所の内部を支配していて、囚人全員を援助していたため、囚人たちに「絶大な人気があった」と語った。

 ある日、囚人のひとりがレムスに言った。「おい、新聞記者! ここで聞いたこと全部、本のネタになるだろう。」 しかし、本を書く前に、不正まみれの裁判を切り抜けなければならなかった。

国家権力の重圧

 ヘスス・レムスは、新聞記者で、ミチョアカン州ラ・ピエダ市の地方紙「エル・ティエンポ」の編集長だった。レムスは、「国民行動党(PAN)とエル・ジュンケ(宗教的な秘密結社)と教会が支配する地方で仕事をした」ために刑を宣告された、と語った。

 2008年5月7日、以前からレムスに情報を提供していた警察官が、情報があると言って、隣接するグアナフアト州にレムスを呼び出した。その電話があったのは、あるミチョアカン州議会議員と連邦下院議会議員がかかわっていた児童売春組織についてのミチョアカン州検察庁の文書を、レムスが新聞に発表した2週間後のことだった。

 レムスは、何の疑いも持たずに車に乗り、グアナフアト州警察に到着した。そこでは、顔を隠した何人かの男たちが待っていて、レムスを拘束した。レムスを呼び出した警察官は、良心の呵責を軽くするためか、「悪く思わないでくれ。グアナフアト当局からの命令なのだ」と説明した。

 殴打の連続、電気ショック、窒息による拷問の最初の1セットが終わると、彼らはレムスに、ある書類に署名させようとした。その書類は、レムスが、ゴルフォ・カルテルのリーダー、オシエル・カルデナス・ギジェンとつながりのある末端の犯罪グループのメンバーであることを認めるものだった。レムスは署名を拒否した。2セット目の拷問のあと、グアナフアトのロス・セタスに所属していると書かれた文書を見せられた。これも拒絶した。拷問の最中に見せられた最後の文書には、ミチョアカン・ファミリーに所属していると書かれていた。それも無駄だった。レムスは署名しなかった。

 レムスは、家族や同僚の心配に命を救われたと語った。レムスが戻ってこなかったため、国境なき記者団のメンバーのマルビーナ・フローレスに連絡したのだ。フローレスは間もなく、レムスがグアナフアト州警察を訪問したことを突き止めた。

 グアナフアト州検察庁は、レムスを麻薬密売人として起訴した。裁判官は、レムスをプエンテシージャス中警備刑務所に送り込んだ。このことを知ると、メディアはレムスを切り捨てた。最も良心的なメディアの場合は、ただ口を閉ざした。最悪の場合には、「麻薬組織と関係のある新聞記者」の逮捕を賞賛した。国境なき記者団だけが、証拠なしの裁判を告発した、とレムスは語った。

 裁判はグアナフアトで行われていたが、レムスはハリスコ州のプエンテ・グランデ刑務所に移送された。そのため、いかなる申請も、司法共助の要請手続きを伴うことになった。グアナフアト州の裁判官は、レムスを法廷に召集するために、ハリスコ州の裁判官に普通郵便で手紙を送った。法廷に呼び出された後、ハリスコ州の裁判官は、普通郵便で返信を送った。「裁判は長引いた。1週間で片づけられる証拠のひとつひとつに、3カ月から4カ月もかかった」と、レムスは当時を思い出した。

弁護士への銃撃

 レムスは、グアナフアト州政府が単独で裁判を妨害できたとは思えないため、「グアナフアト州政府が連邦政府に要請し、命令はずっと上から、つまり、フェリーペ・カルデロンから下りていた」と考えている。

 2010年8月、警察は、ミチョアカン州からグアナフアト州へ向かう高速道路で、1台の車を発見した。車からは、ミチョアカン州ラ・ピエダ市の3人の弁護士が、多数の弾丸を浴び、遺体となって発見された。3人は、レムスの裁判の件で、グアナフアト州に向かっていた。捜査は、組織犯罪の関連ということで、決着してしまった。

 この事件の後、レムスは、裁判官が示したリストの中から、国選弁護人を指名しなければならなくなった。この申請には「普通郵便:で2カ月かかり、引き受けるという返事は決して来なかった。絶望の8カ月の後、レムスは裁判官に、国選弁護人を「誰でもいいから」選んでくれるよう依頼した。

 「私を拘留する根拠となった唯一の証拠は、私を逮捕した警察官の証言だった。この警察官は、私が麻薬組織の末端の犯罪グループのメンバーだと証言した。彼は、私が犯罪組織の色々なメンバーと一緒にいるのを見た、と主張した。重要な証拠は提出されなかった。だからこそ、防衛することができなかったのだ」と、レムスは悔しげに語った。

 証拠は不十分だったが、それでも裁判官にとっては、ヘスス・レムスに禁固20年を宣告する証拠として十分だったようだ。判決は、2011年1月26日に下りた。組織犯罪で禁固10年、「麻薬密売の扇動」でさらに10年だった。レムスは、刑務所でそのように長い時間を過ごすことを甘受せず、グアナフアトの裁判所に控訴した。別の裁判官が担当し、第一審の判決が法的根拠を欠いていたことを認めた。

 この時には、レムスがプエンテ・グランデ重警備刑務所の独居房から雑居房へと移ってから、すでに2年半が経過していた。そして、2011年5月12日、レムスの釈放が通知された。

 「信じられなかった。というのは、時々間違いがあるからだ。ある日など、私は呼び出され、チワワ州で未決の裁判を受けるように言われた。『え? でも、私はチワワには一度も行ったことがありません。』 実は、彼らは名前を勘違いしていたのだ。釈放される予定だった人にとっては、ひどいことだ。しかしその後、勘違いがあったことは、その人に知らされた」と、レムスは言った。

 刑務所を出たとき、レムスは完全に貧窮していた。新聞「エル・ティエンポ」を失った。また、刑務所にいた間に、従業員数人が、不当解雇でレムスを告訴していた。告訴は「ミチョアカン政府からの命令で行われた」と、レムスは語った。

 職を探して、あらゆる新聞社に申し込んだ。しかし、服役した経歴を見ると、皆一様に「後日連絡する」と回答した。ある友達が、ノートパソコンを貸してくれた。そのおかげで、レムスは本を書くことができた。

 レムスは現在、身の危険を感じている。殺すと脅され、ラ・ピエダ市を去った。心理カウンセリングも受けている。刑務所のことが頭から離れず、体験した恐怖のために、よく眠ることができない。いくつかの色やにおいに耐えられなくなった。刑務所でのことを思い出させるからだ。レムスに課された「更生プログラム」とは、殴打と屈辱によって、レムスの意欲を失わせることだった。

 レムスは、モレーリア州の連邦裁判所に、この件を告訴したが、モレーリアの裁判所は審理を拒否し、グアナフアト州の裁判所に告訴するように命じた。レムスを不当に扱った、あの裁判所だ。レムスは現在、米州人権裁判所に告訴する準備を進めている。

 レムスは、「正当な根拠もなしに、国家権力の重圧の犠牲になった」と訴え、「すべては"極右派"が政権にあった時期に起こったことだ。フェリーペ・カルデロン政権は最悪だった。このようなことが二度と繰り返されないよう願っている」と結んだ。

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