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暴力と絶望した理性

カルロス・ファチオ
La Jornada 2014/11/24

 現在のメキシコには、ニコス・プーランツァスがファシズム化のいかなる過程にも表れる兆候と見なした諸要因のうちの、三つの要因が見え始めている。その要因とは、第一に、ブルジョア政党が例外的な国家のあり方へ向かって急進化していること、第二に、表向きの権力と実際の権力との間によくあるゆがみが存在していること、第三に、国民を代表する議員と国民との間のつながりが断絶していることだ。フェリーペ・カルデロンは、まず初めに、麻薬戦争としてカムフラージュされた国家による暴力を、例外として取り入れ、次にそれを日常化し、その後、正式に制度に取り込んだ。すべての例外的な体制は、政治的危機または思想的危機、もしくはその両方の危機が同時に起こった中で生じる。メキシコは現在、深刻な危機にある。しかし、その危機は、過去に発生していたもので、イグアラの事件後の情勢において、より深刻化した。

 イグアラの事件後、大衆の声は、「国家の仕業だ」「大統領は辞任しろ」と、メキシコから世界へ向かって叫んだ。この声に追い詰められ、ペニャ・ニエト大統領と国防大臣は、腹を立てている。悪いことに、彼らは、怒りのあまり先を見通せず、国内で起こっていることを理解できず、無責任なコメントを発表するに及んだ。彼らは、怒りに駆り立てられて、極端で間違った決断を下してしまうかもしれない。

 過去の危機と同様、政府のマニ教的な言葉の数々が、今回も聞かれた。平和と暴力、秩序と無秩序、法治国家と不安定な混乱状態といった、相反する意味を持ついくつかの言葉だ。これは、権威主義とディアス・オルダス的弾圧の脅迫的なニュアンスの漂う、時代遅れの言葉遣いだ。暴力は、あいまいなものではない。暴力は存在する。アウシュビッツ、ヒロシマ、トラテロルコがそれだ。拷問され、殺害され、43人の学生が捕えられて、いまだ行方不明のままのイグアラも、暴力だ。しかしまた、日常の生活や、弾圧者と被弾圧者の関係においては、暴力は、弾圧者が被弾圧者を服従させることを意味している。

 このような現状において、暴力をその政治的背景から切り離すことはできないし、暴力だけを孤立させて恐ろしいモンスターとして描き出し、使い古された虚言を広めるのは不適切だということを、忘れてはならない。時代遅れの政治手法を用いる典型であるペニャ・ニエト大統領とその政府、金銭を受け取って政府の意向通りに報道するメディアは、社会的な内容に欠けた、現実に基づいていない言葉を発している。彼らは、意味をなさない言葉を用い、暴力を、国家権力や政治的手管とは異なるものであるかのように話している。また、彼らは、法と秩序は国家からの暴力の見せかけの姿だということを、忘れているか、または忘れたがっている。政府とメディアは、ある行動を反社会的・破壊的で安定を乱す行動だと定義することで、彼ら自身が行っている社会の解体のプロセス全体に、もっともらしい理由をつけ、そのプロセスを、彼らが作り出した暴力的な状況を正当化するイデオロギーで覆い隠している。

 古い体制の模倣である新しい制度的革命党(PRI)は、破壊は常に存在する隠れた危険であるため、どんなに大きな犠牲を払ったとしても、社会の秩序を保つことは正当なことだと、国民を納得させようとしている。破壊、すなわち「混乱させ、動揺を招き、秩序を乱し、打ち壊す行為」は、いつの時代もネガティブな言葉で定義され、社会の敵とされてきた。しかし、逆説的だと思われるかもしれないが、現代においては、社会を大規模に破壊しているのは、金権政治だ。真に反社会的かつ反歴史的なのは、支配階級、つまり権力を実際に握っている企業家調整評議会メンバーの大資本家たちだ。それらの資本家たちは、10月29日、近代化と進歩の名において、治安の保証と完全に機能する法治国家という課題に、精力的に取り組むことを呼びかけ、メキシコの国家を強化するための協定を推進した。これは、内容のない無駄口であり、単なる美辞麗句だ。実権を握る人々は、何も変えないことを執拗に望んでいる。変えるとすれば、彼らが不法に行使している権力を維持できるような変え方をする。すべてが現状のままとなるような変え方をする。そして、彼らはそのために、粗暴で組織化された暴力を保持している。

 古い政治は、何度も化粧を変えたが、その顔自体は変わっていない。そして、時々、現在のような状況の際に、体制の構造的な暴力がはっきり見えることがある。イグアラ以前は、ペニャ・ニエトは、社会プログラムや宣伝活動、情報操作によって、摩擦を吸収できていた。政府は、隠し持っている暴力性を部分的に見せ、恐怖と制度的暴力を、社会秩序のための道具として利用してきた。それによって得たものは、民衆のほんの少しの消極的な支持だったが、その支持は、むしろ奴隷のような服従に似たものだった。

 オルテガ・イ・ガセトは、暴力を、絶望した理性と呼んだ。しかし、少数の人々の利益となる不平等な社会構造を維持するために、権力側がふるう暴力は、理性の欠如の産物であり、権力を隠れみのにした不正の結果だ。その社会的理性の欠如が悪化すると、暴力は、制度化された暴力となる。政府は、トラトラヤとイグアラの事件に足をとられ、正体を暴かれ、ありのままの姿をさらしている。かの有名な治安維持警察も、真の姿をさらしている。ペニャ・ニエトとその手下であるメディアは、扇動的な手段やこじつけ、うそを用いて、善=平和と、悪=暴力との間で、メキシコを分割しようとしている。彼らは、無秩序を秩序と呼び、恐怖を平和と呼び、飢餓を公平と呼び、失業を発展と呼ぶ。また、国民をだまし、説得し、軟化させようとしているし、不当な逮捕を正当化して若者たちに身のすくむような恐怖を植えつけるために、挑発するような事柄や不正なプロパガンダを、いつわりの大義名分として用いている。彼らが鎮めようとしている不満と抗議と反抗は、民衆の威厳に満ちた怒りであり、国家による暴力に対する抵抗だ。民衆は、構造的な暴力と、その必然的な結果である制度化された暴力を前に、絶望した理性を振り上げている。

 若者たちによる暴動は、混乱と無秩序が制度化されたことを理解し、そのような状態に反抗する人が、日に日に増えているということを表している。若者たちは、生きる権利というものがあること、そして、それが尊重されないときには、抵抗する権利というものがあることを、本能的に理解しているのだ。

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